マルベルゲンの戦闘
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「ミンデンの戦い」の記事における「マルベルゲンの戦闘」の解説
その間に連合軍のヴトギナウ中将率いる師団と、イムホフ(ドイツ語版)中将(1702年-1768年)指揮下のヘッセン人とブラウンシュヴァイク人から構成される師団はホルツハウゼンの南で行軍を完了した。シュテンマーの南には、ホルシュタイン=ゴットルプ公爵中将(1719年-1763年)の騎兵隊が集結する。その間にはブラウン大佐率いるハノーファー砲兵旅団が進出し、フィッツジェームズ公がマルベルゲンの南方に集結させようとして果たせないでいるフランス軍騎兵隊を、その砲撃で足止めしていた。これら、連合軍の9個部隊に対してコンタード侯はボーグ中将率いる騎兵旅団、「コロネル・ジェネラル」を差し向けたが、その攻撃は撃退された。 ブラウンシュヴァイク公フェルディナントは再びサックヴィル卿に対し、それまでの戦闘でフランス軍の中央に生じた大きな間隙へ指揮下の騎兵を突入させるよう命じた。こうしてフランス全軍を殲滅しようとしたのである。しかし、サックヴィル卿は躊躇した。この日、ブラウンシュヴァイク公の命令を持って来た副官(Aide-de-camp)が彼の許に到着する。サックヴィル卿は公の指示が矛盾しており、前日の戦闘計画に少しも合っていないと言った。結局、彼は問い合わせのため自ら最高司令官である公の許に駆け付ける。公は計画が変更されたことを伝え、新しい命令に従うよう彼に求めた。サックヴィル卿はハルトゥムの、自身の騎兵隊へと戻る。そこでは部下の一人、グランビー卿(英語版)(1721年-1770年)が自ら騎乗突撃を敢行しようとしている所であった。しかし、サックヴィル卿は彼を引き留めじっくりと、これ以上ないほど時間をかけて騎兵を戦場へ向かわせるべく準備を始めた。後に、彼はその騎兵隊の行動についてこう報告している。 「私は騎兵の動きや、混乱の最初の兆候が見られる中で停止することに最大限の注意を払っていても、間隔や戦列の保持に大変な困難を感じていた。力と速さをもって攻撃するには、急ぐことも混乱することもなく前進しなくてはいけないのである。」- サックヴィル卿 サックヴィル卿の騎兵24個中隊がようやく戦場に到着した時、戦闘はすでに終わっていた。これらの部隊の欠如は同日、なお重要な影響をもたらす。 コンタード元帥はその間にマルベルゲンへ到着し、ボープレウ中将率いる第1集団の2個歩兵旅団、「トゥーレーヌ」と「ルエルグ」(8個大隊)に、連合軍の戦列を攻撃するよう命じた。その支援のため最後の騎兵旅団、「ドゥ・ロワ」も分派された。しかしこの攻撃は、兵力で大幅に勝るヴトギナウ及びイムホフ師団に直面し、難なく撃退された。続いて両師団は反撃に移る。ヘッセンの「トル」、「ギルザ」、「プリンツ・ヴィルヘルム」及び「グレナディーレ」連隊はその後、「ログー」と「デュ・フランス」擲弾兵連隊及び大砲8門を備えた砲兵大隊が守るマルベルゲンの占領を試みた。フランス軍は何度もその攻撃を跳ね返した。ハノーファーの近衛騎兵連隊も、大きな損害を被りつつも敵の砲兵大隊を攻撃する。しかし、ヘッセンの2個大隊が銃剣突撃を成功させ、大砲5門を鹵獲したのはようやくその後のことであった。 打ち破られたフランス軍の諸大隊は一斉に後退したが、ホルシュタイン=ゴットルプ公の騎兵19個中隊が追いついた。多数のフランス兵が捕虜となり、さらに大砲9門が鹵獲される。完全な崩壊を防ぐため、「ドゥ・ロワ旅団」は反撃を敢行し、局地的な成功を収めた。しかし、この旅団も撃退される。中央でコンタード侯が保持していたのは、第2集団の「オーヴェルニュ」と「アンハルト」旅団のみであった。これらはノイラントで迎撃の陣形を整え、最終的に連合軍の騎兵部隊を食い止める。ブロイ公も指揮下の騎兵の一部(10個中隊)を右翼から救援に回した。これらの騎兵隊は、それまでクーテンハウゼンとシュテンマーの間にいてこの攻撃に参加したヴァンゲンハイム軍団の騎兵、16個中隊と激戦を繰り広げた。
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