マドラス砲撃
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/30 01:35 UTC 版)
「エムデン (軽巡洋艦・初代)」の記事における「マドラス砲撃」の解説
続いてミューラーはマドラスを砲撃することでイギリス海軍の威信失墜をもくろみ、エムデンは西へ向かい9月22日にマドラスを砲撃した。攻撃目標にマドラスが選ばれたのには以下のような理由があった。 ラングーンから離れている。 海上から港湾施設への接近が容易。 攻撃目標の詳細な位置を知っている乗組員がいた。 エムデンは17時にマルコマニアを分離すると4本煙突に擬装して17ノットで目標へ向かった。擬装用の煙突はエムデンが3本煙突なのに対してイギリス巡洋艦が2本または4本煙突であることから用意されたもので、イギリス巡洋艦ヤーマスのものに似せて作られていた。21時45分には海岸から2800から3000メートルに接近し、停止すると砲撃を開始した。エムデンは最初は砲台を砲撃し、それから石油タンクを砲撃して炎上させた。砲台からの反撃もあり、9発が発射されたもののエムデンに命中はしなかった。125から130発を発射するとエムデンは砲撃をやめ、航海灯をつけたまま北へ向かい、陸が見えなくなると明かりを消して南へ向かった。砲撃により35万ガロンの燃料油が焼失し、港湾施設の多くが破壊された。マドラスの人的被害は少なかったが、油貯蔵地区では4人が死亡。また被弾した船でも一人が死亡し、それはエムデンの攻撃で死亡した唯一の商船乗組員であった。この攻撃は市民に大きな心理的影響を与え、イギリスの権威を失墜させた。多くの人々が更なる攻撃を恐れて逃げ出した。 砲撃翌日にエムデンはマルコマニアと合流し、ミュラーはベンガル湾を離れて西へ向かうことに決めた。9月25日にセイロン島に接近したエムデンはイギリス貨物船キング・ラットを発見して沈め、次いでコロンボ・ミニコイ間の航路へと向かって砂糖を積んだイギリス船タイメリックを沈めた。この後も9月26日にイギリス船グリフベイルを、27日に石炭を積載したイギリス船ブレスクを捕らえ、28日にはイギリス船リベラ、フォイルを沈めた。沈めた船の船員をグリフベイルで解放するとエムデンはモルディブ諸島へ向かい、そこで石炭の補給を行った。補給後、マルコマニアにはポントポラスと会合して石炭を移載し、それから港に入って食料を購入し、エムデンと会合するよう指示した。エムデンはマルコマニアと分かれるとチャゴス諸島へと向かった。10月9日にディエゴガルシアに到着し、ブレスクから石炭を補給。ディエゴガルシアでは誰も戦争のことを知らないようであった。エムデンが去ってから2日後にイギリス装甲巡洋艦ハンプシャーと武装商船エンプレス・オブ・ロシアがディエゴガルシアに現れ、エムデンが訪れていたことを知らされた。再び、わずかのところでエムデンはハンプシャーから逃れていた。 ミュラーは次はイギリス領マラヤのペナンへ向かおうとしていたが、コロンボ・アデン航路の安全の問い合わせに対してエムデンはすでにこの海域にはいない、と返答されているのを傍受し、北上することにした。途中の島で再度石炭補給を行い、ミニコイへ向かったエムデンは10月15日にイギリス貨物船クラン・グラントを捕らえ、食料などを確保して翌日沈めた。10月16日には浚渫船ポンラベルとイギリス貨物船ベンモーを沈めた。さらに翌日にはイギリス貨物船トロイラス、中立国アメリカの貨物を積んだイギリス船セント・エグバートと石炭運搬船エクスフォードを、10月19日にもイギリス船チルカーナを拿捕した。豪雨のためセント・エグバートが一時行方不明になるという出来事もあったが、10月19日にトロイラスとチルカーナを沈め、船員をセント・エグバートで解放し、エムデンはこの海域を離れた。
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