ポワティエの戦いとブレティニー条約(カレー条約)
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「エドワード3世 (イングランド王)」の記事における「ポワティエの戦いとブレティニー条約(カレー条約)」の解説
1355年に休戦協定が切れたが、エドワード3世は当時スコットランド政策に忙殺されていたので、同年9月に黒太子をガスコーニュに送り込み、彼の指揮のもとに対フランス戦争を再開した。黒太子率いるイングランド軍は10月から11月にかけて「騎行(英語版)」しながら900キロを踏破し、地中海に近いナルボンヌまで到達した後に引き返した。翌春にイングランド軍はフランス領への直接攻撃を開始し、ベリー地方、ロワール川地方へ向かい、その地方の農作物や家畜などを徹底的に破壊した。さらにフランス王権にとって中心地のひとつだったブルージュを占領した。ブルージュ陥落で忍耐が切れたジャン2世はフランス軍を結集して黒太子の追撃を開始した。そして1356年9月19日に両軍はポワティエから南西15キロの地点で対戦(ポワティエの戦い)、数で劣るイングランド軍が大勝をおさめ、フランス王ジャン2世はイングランド軍の捕虜となった。 エドワード3世は、捕虜になったジャン2世や、ジャン2世捕虜後にフランス摂政として国政を指導するようになったジャン2世の長男シャルル(後のシャルル5世)と交渉を繰り返し、最終的に1360年5月8日にブレティニーにおいて英仏の和平条約の仮条約であるブレティニー条約が締結された。これによりエドワードはポワトゥーを含むアキテーヌ公領を封主権付で委譲され、カレーとその周辺地域、ポンティユー伯領、ギュイーヌ伯領の割譲を受けた。さらにフランス王の身代金として分割払いで300万ロワイヤル金貨を受け取ることになった。その代わりにエドワードが放棄したのはフランス王位のみだった。10月24日にはブレティニー条約の本条約となるカレー条約が締結された。 だがフランスからの身代金の支払いは滞り、エドワード3世は身代金全額を受ける前にジャン2世を釈放する代わりとして、ジャン2世の第2王子アンジュー公ルイ、第3王子ベリー公ジャン、王弟オルレアン公フィリップを含む40人の人質をロンドンに送ることをフランスに要求した。要求通り人質が送られてきたが、1363年9月には人質の一人であるアンジュー公ルイがロンドンから大陸のカレーに移されたのを好機として脱走した。釈放されていたジャン2世は代わりの人質が逃げたのなら自分が戻るしかないと言って自らの意思でロンドンへ戻ってきたので再びジャン2世を捕虜にしたが、ジャン2世は翌64年4月8日にロンドンで崩御し、摂政シャルルがシャルル5世として即位した。
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