ポワティエの戦いとブレティニー条約とは? わかりやすく解説

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ポワティエの戦いとブレティニー条約(カレー条約)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/09 15:22 UTC 版)

エドワード3世 (イングランド王)」の記事における「ポワティエの戦いとブレティニー条約(カレー条約)」の解説

1355年休戦協定切れたが、エドワード3世当時スコットランド政策忙殺されていたので、同年9月黒太子ガスコーニュ送り込み彼の指揮のもとに対フランス戦争を再開した黒太子率いイングランド軍は10月から11月にかけて「騎行英語版)」しながら900キロ踏破し地中海に近いナルボンヌまで到達した後に引き返した翌春イングランド軍はフランス領へ直接攻撃開始しベリー地方ロワール川地方向かい、その地方農作物家畜などを徹底的に破壊した。さらにフランス王権にとって中心地ひとつだったブルージュ占領したブルージュ陥落忍耐切れたジャン2世フランス軍結集して黒太子追撃開始した。そして1356年9月19日両軍ポワティエから南西15キロ地点対戦ポワティエの戦い)、数で劣るイングランド軍が大勝をおさめ、フランス王ジャン2世イングランド軍の捕虜となったエドワード3世は、捕虜になったジャン2世や、ジャン2世捕虜後にフランス摂政として国政指導するようになったジャン2世長男シャルル(後のシャルル5世)と交渉繰り返し最終的に1360年5月8日にブレティニーにおいて英仏和平条約仮条約であるブレティニー条約締結された。これによりエドワードポワトゥーを含むアキテーヌ公領を封主権付で委譲され、カレーその周辺地域、ポンティユー伯領、ギュイーヌ伯領の割譲受けた。さらにフランス王身代金として分割払い300ロワイヤル金貨受け取ることになったその代わりエドワード放棄したのはフランス王位のみだった。10月24日にはブレティニー条約本条約となるカレー条約締結された。 だがフランスからの身代金支払い滞りエドワード3世身代金全額を受ける前にジャン2世釈放する代わりとして、ジャン2世の第2王子アンジュー公ルイ第3王子ベリー公ジャン王弟オルレアン公フィリップを含む40人の人質ロンドンに送ることをフランス要求した要求通り人質送られてきたが、1363年9月には人質一人であるアンジュー公ルイロンドンから大陸カレー移されたのを好機として脱走した釈放されいたジャン2世代わり人質逃げたのなら自分が戻るしかないと言って自らの意思ロンドンへ戻ってきたので再びジャン2世捕虜にしたが、ジャン2世は翌64年4月8日ロンドン崩御し摂政シャルルシャルル5世として即位した

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