ポラリス遠征
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/08 13:15 UTC 版)
「チャールズ・フランシス・ホール」の記事における「ポラリス遠征」の解説
詳細は「en:Polaris expedition」を参照 ホールの3回目の遠征は、それまでとは全く性格をことにするものであった。今回は、アメリカ合衆国議会から5万ドルの資金を提供され、汽船「USSポラリス(英語版)」で北極点を目指す遠征を指揮することになったのである。25名の隊員には、ホールの旧友バディントンがマスター(英語版)として、ジョージ・タイソン (George Tyson) が航海士として、ドイツ人医師で博物学者であったエミル・ベッセルズ(英語版)が科学調査要員の責任者として参加していた。この遠征は、当初から災難に見舞われ、隊員の中に対立する派閥が形成されてしまった。この遠征の責任者としてのホールの権威は、隊員の大多数の反発を招き、遠征隊の規律は乱れた。 「ポラリス」は、1871年9月10日に、グリーンランド北岸のサンク・ゴッド・ハーバー(Thank God Harbor:現在のホール湾 Hall Bay)に入り、越冬するべく錨を下ろした。その秋、イヌイットのガイドとともに犬ゾリでの探検に出かけたホールは、帰路にコーヒーを飲んだ後、突然倒れた。ひきつけを起こしてその場に崩れ落ちたのである。その後1週間ほど、ホールは嘔吐とせん妄に襲われたが、続く数日は小康状態を保った。当時、ホールは、ベッセルズ医師を含め、隊員の何人かを名指しして、毒を盛ったと言い張った。程なくして、再び症状が悪化したホールは、11月8日に至り落命した。遺体は陸上に運ばれ、正式に埋葬された。 遠征の指揮権はバディントンに委ねられ、1872年6月には北極点を目指す体制の立て直しがなされた。しかし、北極点到達の試みは失敗に終わり、「ポラリス」は南へ戻ることとなった。10月12日、船はスミス海峡で氷に閉じ込められ、氷の圧力で押しつぶされる寸前になった。タイソンを含め、隊員とエスキモーのガイドたち、合わせて19名は、船を逃れて周囲の氷の上に移ったが、14名は船に残った。「ポラリス」はエタ付近で座礁し、10月24日に破壊された。上陸して越冬した隊員たちは、2隻のボートで南へ向かい、捕鯨船に救助され、スコットランドを経由して帰国した。 一方、船を離れて別行動になっていた、タイソンを含む19名のグループは、以降の6ヶ月にわたって流氷に乗り、1,500マイル (2,414 km)漂流した末、1873年4月30日に、ニューファンドランド島沖でシーラー(鰭脚類の狩をする船)「ティグレス(英語版)」に救助されたが、一行の中に狩猟技術を備えたイヌイットたちがいなければ、おそらくは食料不足で全滅していたものと思われる。
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