ボンズの登場
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/31 10:10 UTC 版)
「サンフランシスコ・ジャイアンツ」の記事における「ボンズの登場」の解説
1993年にピッツバーグ・パイレーツからFAとなっていたバリー・ボンズを獲得。ゴッドファザーだったメイズを尊敬していた彼は背番号24を譲ってもらう意向だったが、既に永久欠番となっていたため受け入れられず、父ボビーがつけていた背番号25を着ける事となった。ボンズは初のシーズン40本塁打を記録する等期待に違わぬ活躍を見せ、チームも当初は西地区を独走していたが、ブレーブスの追い上げをくらい、ボンズはパイレーツ時代に続いてまたもブレーブスにワールドシリーズ出場を阻止される事となる。ウィル・クラークとのコンビは同年限りで彼がテキサス・レンジャーズに移籍したため1年で解消となったが、1997年にはジェフ・ケント(ただし、犬猿の仲だった)とコンビを組み、コンスタントに成績を残す。そんなボンズの体格が突然巨大化したのは本拠地をオラクル・パーク(旧名称パシフィック・ベル・パーク)に移した2000年シーズン以降で、2001年シーズンはマーク・マグワイアのシーズン本塁打記録を破ったが、ドジャースとのその試合では打ち負け、またもワールドシリーズ進出はならなかった。 新庄剛志が移籍した翌2002年シーズンはワイルドカードから久々にリーグ優勝した。チーム内ではその唯我独尊的言動で浮いていたボンズとも好関係だった新庄は日本人としては初のワールドシリーズ出場選手となったが、同じくワイルドカードから勝ち上がり出場したアナハイム・エンゼルスに敗れた。その後も本塁打・四死球数を伸ばしていったボンズは2004年9月17日のサンディエゴ・パドレス戦でついにベーブ・ルースの通算本塁打記録を抜いたが、薬物疑惑スキャンダルに見舞われる事となる。翌2005年には故障でシーズンの大半を欠場、バリー・ジトを迎えた2007年シーズンにハンク・アーロンのメジャー通算本塁打記録を破る事が注目され、8月7日に本拠地のワシントン・ナショナルズ戦でついに塗り替えた。 しかし、この頃は「メジャーリーグの中のシニアリーグ」と揶揄されるほど高齢のベテランばかりのチームとなっていると指摘されるなど、2005年以降は3シーズン連続負け越し、2007年にはついに3地区制シーズン(1993年~)では1996年以来11年ぶりとなる4位以下に転落した。また、シーズン中の9月21日には、年俸の高さ、チームの低迷、チームの若返りの方針などにより、来期以降のボンズとの契約を延長しない意思を彼に伝え、ジャイアンツを退団する事となった。 2008年は2年目となるティム・リンスカムが、防御率2.62、18勝5敗、265奪三振という成績を収め、最多奪三振とサイ・ヤング賞に輝くなど、大ブレイクを果たす。他にもリンスカムと同世代のマット・ケインやパブロ・サンドバルなどの若手選手もレギュラーとして好成績を収めた。しかし、この年は72勝90敗と前年に続き負け越した。 2009年はリンスカム、ケインを2枚看板とした投手陣がリーグ2位となるチーム防御率3.55を記録するなど、投手陣がチームを引っ張り、88勝74敗と5年ぶりに勝ち越してシーズンを終えることとなった。
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