ボヘミアにおける宗教戦争:ヤン・フスとフス戦争
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「中世ヨーロッパにおける教会と国家」の記事における「ボヘミアにおける宗教戦争:ヤン・フスとフス戦争」の解説
「フス戦争」を参照 神聖ローマ皇帝カール4世の時代にボヘミアは文化的な隆盛を迎え、プラハ大司教区やプラハ大学が創設された。プラハ大司教や聖職者はカール4世の後ろ盾になり、宮廷で行政に携わった。 農民の出身のプラハ大学教授フスはオックスフォード大学留学中にウィクリフに影響され、救いは神の予定にあるとして、聖職者の土地所有に反対し、贖有状を批判した。1411年、フスは贖有状を批判したため破門されると、フス破門に反対する運動がプラハ大学などでチェク人(チェコ人)のナショナリズムむすびついてフスは改革を説いた。皇帝ジギスムントと教皇は、フスの破門を一時的に留保してコンスタンツ公会議に出席するようフスを説得したため、フスは公会議に参加したが、フスは異端と宣告され、弁明も許さず、火刑に処された。フス処刑によってチェコ人のナショナリズムに火がつき、ボヘミア全土に教会改革が広がっていった ヴェンツェル死後にジギスムントがボヘミア王位を相続すると、ボヘミアのフス派はこれを認めず、1419年、フス派が市庁舎を襲撃して議員と聖職者を窓から突き落として殺害するプラハ窓外投擲事件が発生し、皇帝がフス派討伐十字軍を派遣してフス戦争がおこった。 フス派はタボル派とウトラキスト派に分裂した。農民と職人と下層騎士からなるタボル派は、教会を否定し、共有財産制、武器による神の王国の建設を急進的な主張をした。ウトラキスト派は都市貴族や学生からなる穏健派で、神のことばの自由な説教、平信徒による聖体拝領、聖職者の使徒的生活、当局の大罪者への処罰の提示の四箇条を主張した。ヤン・ジシュカ率いるタボル派は、1420年に自治共同体を形成し、さらに政治的軍事的主導権を掌握し、皇帝軍を5回撃退した。1428年から1433年にかけてフス派はオーストリア・スロヴァキア・シュレジエン・ポーランド・ドイツなどに遠征した。しかし、タボル派の勢力拡大を恐れたウトラキスト派はカトリック教会と連合し、内戦となった。この内戦は1436年のバーゼル公会議でフス派がジギスムントのボヘミア王位を認めたことで終結した。フス戦争においてドイツ人からの独立を目指すチェコ人の民族主義が背景にあったといわれ、このチェコ民族主義では、チェコ人こそがすべての民族の最優秀のキリスト教徒であり、堕落した教会を再建するために神に選ばれし民族であるという排他的で神秘的なメシア主義が主張されていた。 ウィクリフ、フス、そしてフス戦争という展開は、やがて1517年にはじまるマルティン・ルターの宗教改革へとつながっていった。 その後の展開については「ヨーロッパにおける政教分離の歴史」を参照
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