ボブ・ヒューストンとジョイス・ショー
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/28 07:19 UTC 版)
「サンフランシスコにおける人民寺院」の記事における「ボブ・ヒューストンとジョイス・ショー」の解説
人民寺院信者のボブ・ヒューストンとジョイス・ショーの夫妻は、サンフランシスコ市ポトレロ・ヒル(英語版)に家を所有しており、この場所は教団の共同生活施設として使用されていた。ヒューストンが社会主義理論の詳細をジョーンズに繰り返し質問してから、ジョーンズはしばしばヒューストンの事を「鈍感な知識人」、「階級の敵」と呼び、他の信者達に対してもヒューストンを軽んじる様に勧めていた。ヒューストンは、少なくとも2回、教団の「ボクシングの試合」に出場させられ、そこで罰と称して暴行を受け、鼻血を流し、家族の眼前で辱めを受けた 。 その一方で、ショーはコミューンの運営と、サンフランシスコにおける全教団信者の医療調整からのストレスに苦しんでいた。教団内で彼女が絶え続けた心理的虐待によって挫折し、ショーは1976年7月の行われた教団信者のほぼ全員が参加したクロスカントリーバス旅行の間に教団を脱走した。教団の捜索隊が派遣される可能性を恐れたショーは、オハイオ州に向かって出発する前に、友人とソノマ郡フェアグラウンズ(英語版)に3週間滞在した 。 1976年10月2日、ショーは教団が録音を行っている回線を使ってヒューストンに電話をかけ、彼に教団を脱退するように誘い、加えて関係修復を申し出た。この3日後、ヒューストンの死体がサザン・パシフィック鉄道の操車場で発見された。教団側は、ヒューストンは死亡する日の朝、偶然にも教団を脱退したと主張した。ショーは、ヒューストンの脱会届とされるものを見たが、タイプライターによって書かれた物であり、彼女は偽造されたものであると信じていた。ショーの主張では、ヒューストンは手紙などでもタイプライターを使うことは無かったとのことであった 。 教団信者達がヒューストンの葬式に出席しており、ショーは彼らに悟られない様、テープレコーダーが入った財布を持っていた。その翌日、ショーがヒューストンの持ち物を受け取りにポトレロ・ヒル・コミューンに出向いた際、教団信者であるキャロライン・レイトンは、ジョイスに対して、夫妻は娘達に性的虐待を行ったという文書への署名を強制されていたため、娘のジュディとパトリシアの監護権を取得しようとしない様に伝えた。教団は、しばしば信者に同様の書類に署名を強制していた。 ヒューストンの父親で、AP通信の写真家であるロバート・"サミー"・ヒューストン は、10月2日に録音された電話の事を知らなかったにも関わらず、教団が息子の死に関与していると確信していた。サミー・ヒューストンは、ティム・ライターマンを含む数人のAP通信の報道員にこの情報を伝えた。この後、ジュディとパトリシアからの手紙が、ジョーンズタウンからサミーの家へ届いた。サミーは、最終的にこの話を友人である下院議員のレオ・ライアンに伝え、彼は教団の調査に興味を示した。教団の悲劇的な終焉に繋がったのは、1978年に実施された、ジョーンズタウンへのライアンの事実調査活動であった。
※この「ボブ・ヒューストンとジョイス・ショー」の解説は、「サンフランシスコにおける人民寺院」の解説の一部です。
「ボブ・ヒューストンとジョイス・ショー」を含む「サンフランシスコにおける人民寺院」の記事については、「サンフランシスコにおける人民寺院」の概要を参照ください。
- ボブ・ヒューストンとジョイス・ショーのページへのリンク