ベレン門とサン・コスメ門
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/03 16:25 UTC 版)
「チャプルテペクの戦い」の記事における「ベレン門とサン・コスメ門」の解説
スコット将軍は城に到着し、喝采を送る兵士達にもみくちゃにされた。チャプルテペク城とそこの捕虜を守るために1個連隊を置いた。スコットは次にメキシコシティへの攻撃作戦を立てた。ベレン門に対しては2次攻撃を掛けることとし、サン・コスメ門に対する主力攻撃としてウィリアム・J・ワース師団の残りにラ・ベロニカ舗道(現在はアベニダ・ベルコール・オカンポ)上のトルースデイル隊を支援させるよう命令した。この門はランゲル将軍が守っていた(グラナデロス大隊、マタモロス・モレリア・アンド・サンタ・アナ大隊の一部(ゴンザレス大佐)、第3軽連隊の一部(エチェガレイ中佐)、および第1軽連隊(マルケス指揮)) トルースデイルはジョン・ガーランド、ニューマン・S・クラークおよびジョージ・キャドワラダーの各旅団に支援され、舗道上を前進し始めた。一方、クイットマン将軍は直ぐにチャプルテペク城に部隊を集め、パーシフォー・F・スミスの旅団が東に回って、即座にベレン舗道に進行を始めた。クイットマンの攻撃は陽動攻撃のみを意図されていたが、市内に向けてチャプルテペクから撤退しつつあった守備隊を追撃したときに攻撃の中心に変わった。その部隊は門の前で砲台に支援された強力な抵抗に遭った。クイットマン隊は舗道の中央に走る水道の石造りアーチ橋を使って這い進んだ。メキシコ軍アンドレス・テレスの部隊(大砲3門と兵士200名、第2メキシコ・アクティボス)が脱走を始め、要塞の方向に逃げた。クイットマンは騎馬ライフル隊(この時は徒歩で戦った)の先導で午後1時20分にベレン門を突破した。スコット将軍は後に「勇敢なライフル隊、貴方達は銃火を潜り、鋼になった」と言った。 北方では、ロバート・E・リーがラ・ベロニカ舗道を下るワースの攻撃隊を率いた。ワース隊がラ・ベロニカとサン・コスメ舗道の交差点に到達したのは午後4時であり、そこで1,500名の騎兵隊による反撃を駆逐し、その後に東に転じてサン・コスメ舗道を下った。進展は緩りとしたものであり、損失が増えて行った。ガーランド大佐とクラーク大佐は道の側の建物に敵軍が詰まっているのを見つけて、第1および第2旅団を送り、バールや鶴嘴で建物の両面に穴を開けることで、援護射撃の下、守備隊に接近させた。ユリシーズ・グラント中尉が舗道の南にあるサン・コスメ教会の鐘楼を発見し、そこに榴弾砲を揚げて、その高い位置から守備隊への砲撃を始めた。道の北側では、海軍士官ラファエル・セムズがグラントのうまくいったやり方を真似た。続いてジョージ・テレット中尉が1軍の海兵隊を率いてメキシコ軍守備隊の背後に回って屋根に上り、砲手たちに殺人的な一斉射撃を放った。午後6時までに、ワース隊が門を突破し、守備隊は散り散りになった。多くのメキシコ兵がシウダデラまで撤退し、サンタ・アナも彼等に従った。夜が訪れると、ワースは市内の王宮近くにあった5門の迫撃砲を奪った。
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