ベリサリウスのイタリア復帰(544年 - 550年)
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「ゴート戦争」の記事における「ベリサリウスのイタリア復帰(544年 - 550年)」の解説
ペルシャとの5年間の休戦が成立したことにより、544年にベリサリウスが200隻の艦隊を率いてイタリアに復帰したが、イタリアの状況は彼がいた頃とは全く変わっていた。帝国は未だ軍の主力を対ペルシャ戦線に投じなければならなかったため、ベリサリウスは不十分な戦力しか持つことができず、また陰謀の嫌疑を受けて一時失脚させられた身でもあったので軍司令官の職も与えられず、自前で兵士を集めねばならなかった。彼はオトラントとオシモを占領したが、兵力も資金も不足しており、コンスタンティノープルのユスティニアヌス帝に援助を懇願する手紙を送ったが、皇帝に黙殺されている。ベリサリウスは兵力不足のままローマ付近のポルトに進出した。 ローマは545年末からトーティラにより包囲されており、ベリサリウスはローマの救援を試みたがヨハネス将軍との意見の不一致もあって成功せず、546年12月に給与不払いに不満を持ったイサウリア人の裏切りにより東ゴート軍の手に落ちてしまった(ローマ略奪)。トーティラは原状復帰を条件とする和平をユスティニアヌス帝に提案したが、皇帝はこれを拒否した。和平を拒絶されたトーティラはローマの城壁を破壊して南イタリアへと兵を進めた。この際に彼はローマの完全な破壊さえ計画していたが、寸前で思い止まっている。 東ゴート族にとってこの戦争は生死をかけた戦いとなっており、しばしば、急進的な手段も正当化された。トーティラは奴隷を解放して兵士にするよう命じ、このことにより、イタリアの元老院階級を帝国の側に追いやることになる。547年にベリサリウスはローマを奪回したが、長い包囲戦と飢餓の末、550年1月に再び東ゴートの手に落ちた。5世紀にヴァンダル族や東ゴート族の略奪を受けていたローマ市は、535年時点でもなお10万人の住民を擁していたが、過酷なゴート戦争の結果、人口が激減しほとんど廃墟と化した。550年、トーティラは戦勝を祝ってチルコ・マッシモで大規模な戦車競走を催している。これが古代における最後の戦車競走の記録である。 一向に勝利を得られないベリサリウスに苛立ったユスティニアヌス帝は、549年に彼の召還を決めた。歴史家プロコピウスの記述を信じるならば、ベリサリウスの苦戦の原因はユスティニアヌス帝の嫉妬により、補給も増援も途絶えたためである。 トーティラは艦隊を編成してダルマチア沿岸部やシチリアを襲撃させ、東ローマ帝国の制海権を脅かすまでになった。
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