ベリサリウスのイタリア復帰とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > ベリサリウスのイタリア復帰の意味・解説 

ベリサリウスのイタリア復帰(544年 - 550年)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/15 06:25 UTC 版)

ゴート戦争」の記事における「ベリサリウスのイタリア復帰(544年 - 550年)」の解説

ペルシャとの5年間の休戦成立したことにより、544年ベリサリウス200隻の艦隊率いてイタリア復帰したが、イタリア状況は彼がいた頃とは全く変わっていた。帝国未だ軍の主力を対ペルシャ戦線投じなければならなかったため、ベリサリウス不十分な戦力か持つことができず、また陰謀嫌疑受けて一時失脚させられた身でもあったので軍司令官の職も与えられず、自前兵士集めねばならなかった。彼はオトラントオシモ占領したが、兵力資金不足しており、コンスタンティノープルユスティニアヌス帝援助懇願する手紙送ったが、皇帝黙殺されている。ベリサリウス兵力不足のままローマ付近ポルト進出したローマ545年末からトーティラにより包囲されており、ベリサリウスローマ救援試みたヨハネス将軍との意見不一致もあって成功せず546年12月給与不払いに不満を持ったイサウリアの裏切りにより東ゴートの手落ちてしまった(ローマ略奪)。トーティラ原状復帰条件とする和平ユスティニアヌス帝提案したが、皇帝はこれを拒否した和平拒絶されトーティラローマの城壁破壊して南イタリアへと兵を進めたこの際に彼はローマの完全な破壊さえ計画していたが、寸前思い止まっている。 東ゴート族にとってこの戦争生死をかけた戦いとなっており、しばしば、急進的な手段正当化された。トーティラ奴隷解放して兵士にするよう命じ、このことにより、イタリア元老院階級帝国の側に追いやることになる。547年ベリサリウスローマ奪回したが、長い包囲戦飢餓の末、550年1月に再び東ゴートの手落ちた5世紀ヴァンダル族東ゴート族略奪受けていたローマ市は、535年時点でもなお10万人の住民擁していたが、過酷なゴート戦争結果人口激減しほとんど廃墟化した550年トーティラ戦勝祝ってチルコ・マッシモ大規模な戦車競走催している。これが古代における最後戦車競走記録である。 一向に勝利を得られないベリサリウス苛立ったユスティニアヌス帝は、549年彼の召還決めた歴史家プロコピウス記述信じるならば、ベリサリウス苦戦原因ユスティニアヌス帝嫉妬により、補給増援途絶えたためである。 トーティラ艦隊編成してダルマチア沿岸部シチリア襲撃させ、東ローマ帝国制海権を脅かすまでになった

※この「ベリサリウスのイタリア復帰(544年 - 550年)」の解説は、「ゴート戦争」の解説の一部です。
「ベリサリウスのイタリア復帰(544年 - 550年)」を含む「ゴート戦争」の記事については、「ゴート戦争」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「ベリサリウスのイタリア復帰」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ


このページでは「ウィキペディア小見出し辞書」からベリサリウスのイタリア復帰を検索した結果を表示しています。
Weblioに収録されているすべての辞書からベリサリウスのイタリア復帰を検索する場合は、下記のリンクをクリックしてください。
 全ての辞書からベリサリウスのイタリア復帰 を検索

英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「ベリサリウスのイタリア復帰」の関連用語

ベリサリウスのイタリア復帰のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



ベリサリウスのイタリア復帰のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaのゴート戦争 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS