ベオグラードの勝利と死
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/11/18 06:42 UTC 版)
「フニャディ・ヤーノシュ」の記事における「ベオグラードの勝利と死」の解説
1453年にオスマン帝国によるコンスタンティノープル包囲が進められる中、東ローマ皇帝コンスタンティノス11世パレオロゴスはハンガリーに援助を求めたが、フニャディは国内の事情と休戦協定を理由に明確な返答を避けた。同年にコンスタンティノープルが陥落する(コンスタンティノープルの陥落)と、オスマン帝国は再びハンガリーを攻撃の目標とする。皇帝メフメト2世は、南ハンガリーへの入り口であるナーンドルフェヘールヴァール(現在のベオグラード)を攻略の対象とし、ナーンドルフェヘールヴァールの陥落はオスマン軍の中央ヨーロッパへの進路が開かれることを意味していた。オスマン軍の攻勢に対してラースロー5世は国外に逃亡し、大貴族たちは腰を上げようとしなかった。 フニャディは政敵との不和を解消した後、1455年末に包囲を受けていたナーンドルフェヘールヴァールに到着する。ナーンドルフェヘールヴァールに自身が調達した武器と食料を補給し、指揮官として義弟のシラージ・ミハーイ(英語版)と長男ラースローを要塞に残していったん離脱した。フニャディは兵士を集め、ドナウ河畔の町や村からかき集めた200隻の小舟で即席の艦隊を作り上げた。教皇の元から派遣されたフランシスコ会の修道士ジョヴァンニ・ダ・カピストラーノ(英語版)がフニャディの有力な協力者となり、軍事経験の無い貧民から構成される十字軍を情熱的な演説で奮い立たせていた。カピストラーノの率いる兵士のほとんどは鎌や熊手といった農具で武装しており、彼らはフニャディが率いる少数精鋭の傭兵隊の下に集まった。 1456年7月にメフメト2世の率いる軍隊がナーンドルフェヘールヴァールの前に現れ、町に砲撃を加えた。カピストラーノが率いる寄せ集めの兵士と即席の艦隊がオスマン軍に攻撃を行っている間にフニャディは包囲を受けているナーンドルフェヘールヴァールに突入し、城内の守備隊と合流した。オスマン軍が城壁に開けられた裂け目から市内に突入すると、フニャディは城内に配置した伏兵で奇襲をかけて勝利を収め、オスマン軍の将軍・イェニチェリの多くが戦死した(ベオグラード包囲戦(英語版))。 フニャディの勝利により、ハンガリー南東部ではおよそ70年の間平穏な状態が保たれた。しかし、包囲が解除された3週間後にハンガリー軍内で疫病が流行し、1456年8月11日にフニャディは病に罹って没した。死因はペストと考えられている。最期にフニャディは「私は友人を、キリスト教を、ハンガリーを全ての敵から守りぬいた。キリスト教の信徒同士で争ってはならない。仲間同士の争いで無駄な力を使うことがあれば、運命は閉ざされ、我々の国の墓が建つだろう」と言い遺した。
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