プロ宣言後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/24 01:32 UTC 版)
小4(10歳4か月)でプロ宣言し、ミキハウス(大阪府八尾市)と専属契約を結び、1998年(平成10年)8月に仙台市より八尾市へ引っ越した。 福原は当時できたばかりのミキハウス練習場に通うようになった。2年間通った王子卓球センターの作馬六郎から「王子サーブ」を習得し、以降このサーブは福原愛の代名詞ともなった(今はほとんど使っていない)。なお、同センター前の道路は、福原の功績により「ピンポン通り」と命名された。 大阪では公立小学校に通っていた。小6の6月に、ITTFジャパンツアー一般の部に選ばれ初出場で代表デビューを果たす。中学は大阪の強豪である私立四天王寺中への進学を考えていたが、福原は既にプロ契約をしていたため、アマチュア規程により全中やインターハイなどには出場できないという懸念があった。結局地元公立中へ入学したが、1か月でスポーツの名門私立学校、青森山田中学校に転校した。青森山田中は中高一貫教育を目指してその年に開校。法人は卓球専用の体育館などの施設を備えている。同校を選んだのはミキハウスJSCに所属したままプロ活動をしたいという福原サイドの意向に、理解を示したのが大きな理由である。これにより福原は多くの卓球遠征が可能になった(その後福原は「卓球界に大きな貢献をした」ということで、全中もインターハイ も国体も特例で出場できるようになった)。ミキハウスは青森JSC(ジュニアスポーツクラブ)という組織を作り、福原をその所属とした(他には青森大学の坂本竜介などがいて、混合ダブルスペアをよく組んでいる)。小西杏とはダブルスで全日本3連覇した(2005年以降、代表では藤沼亜衣と組んでいる)。 以降、中学の3年間は世界各地のITTFプロツアーに数多く出場。安定した成績を見せ、世界ランキングを上げていった。この頃国内の高校以下では無敵となり、また国際試合での強さも見せ、国内シニアの選手にも勝てるようになっていった。選考会などを経て14歳の若さで2003年世界卓球選手権個人戦に抜擢され出場し、日本勢の中で一人躍進、ベスト8に進出。この結果により翌2004年3月の世界選手権団体戦と、4月のアテネ五輪アジア予選出場が内定。2001年にはコーチの黄智敏と1分間に175回のラリーを続けるというギネス記録を達成している。
※この「プロ宣言後」の解説は、「福原愛」の解説の一部です。
「プロ宣言後」を含む「福原愛」の記事については、「福原愛」の概要を参照ください。
- プロ宣言後のページへのリンク