プロ入りとロッテ・ジャイアンツ時代
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「李大浩」の記事における「プロ入りとロッテ・ジャイアンツ時代」の解説
2001年に投手としてロッテ・ジャイアンツに入団した。しかし肩を痛めたためすぐに打者転向した。 2002年、当時の監督であった白仁天から体重の減量を命じられ、無謀な練習中に膝を怪我した。李大浩はこの時期が野球人生で一番辛かったと回想している。 2003年、膝の怪我の影響で出場機会が少なかった。 2004年は一塁のレギュラーに定着。 2005年にはKBOオールスターゲーム最優秀選手賞を受賞し、公式戦全126試合に出場した。 2006年に首位打者、本塁打王、打点王を獲得し、1984年の李萬洙以降22年ぶりとなる三冠王となった。得点圏打率も.398と最も高く、一塁手としてゴールデングラブ賞を受賞した。しかし、最優秀選手投票ではチーム全体の成績が7位と悪かったことと、打点の数が低かったことがあだとなり、投手三冠を獲得した柳賢振に最優秀選手賞 (MVP) を譲った。 2007年、4月21日の現代ユニコーンズ戦では社稷野球場初となる推定飛距離150メートルの場外本塁打を記録。同年は最終的に打率.335、29本塁打、87打点、OPS1.053を記録した。 2008年は北京オリンピックの野球韓国代表に選出された。主に指名打者として起用された。アメリカ合衆国戦、日本戦(和田毅から2点本塁打)、オランダ戦で本塁打を1本ずつ記録し、大会最多タイの3本塁打を記録。大会通じて打率.360・10打点と国際大会でもその打撃力は発揮された。大会前までには兵役を免除されておらず、この大会でメダルを獲得すれば免除されることが決まっていたため、チームの金メダル獲得によって兵役を免除された。 2009年はシーズン開幕前の3月に開催された第2回ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)の韓国代表に選出された。同大会では打率.278、打点5と目立った成績は残せなかった。 シーズンでは4年ぶりとなる全試合出場を果たした。チームは前年の3位から4位に順位を下げたこともあり、契約更改では年俸の削減対象とされたが、活躍が認められ3000万ウォンの年俸増を勝ち取った。 2010年8月14日の対起亜タイガース戦で世界記録となる9試合連続本塁打を打った。8月20日の対斗山ベアーズ戦では李承燁、沈正洙が2003年に記録して以来となる自身初のシーズン40本塁打を記録。最終的に打率.364、44本塁打、133打点で自身4年ぶり2度目(韓国球界初)となる打撃三冠王を達成。その他、安打数、出塁率、長打率、得点まで7部門でトップを記録するなどプロ入り後最高となる成績を収め、レギュラーシーズン最優秀選手 (MVP) にも選ばれた。 2011年1月、KBOに年俸調停を申請し調停委員会が開かれたが、本人が要求した7億ウォンではなく、球団側が提示した6億3000万ウォンの年俸が通った。レギュラーシーズンでは打率.357、27本塁打、113打点、OPS1.011という好成績を残した。オフに自身初のFAを行使した。また、MVP投票では投手4冠王の尹錫珉が最優秀選手賞 (MVP) を受賞した。
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