プレザントヒルの戦い
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「レッド川方面作戦」の記事における「プレザントヒルの戦い」の解説
詳細は「プレザントヒルの戦い」を参照 4月9日午後4時、南軍は新着のトマス・J・チャーチル准将の歩兵隊が北軍への攻撃を始めた。テイラーはその部隊を北軍の側面に送ったと考えたが実際には中央だった。南軍の騎兵隊も陣配置を見誤り、側面から激しい銃火を浴びた。チャーチル隊は北軍中央の陣地を崩壊させたが、このことで自隊はA・J・スミスのまだ使われていなかった師団がUの字に構えていたその真ん中に嵌ることになった。前進していた北軍の右翼も崩壊したが、スミスとモーワーの部隊が反撃を開始し、隣接していた連隊も加わってテイラー隊をプレザントヒル近辺から壊走させた。幾つかの大砲を取り戻せた。 バンクスは、水や馬の飼料が欠乏し、補給船がどこにいるか分からず、さらに年長の士官たちの意見が割れたために、下流のナチトチェスとグランド・エコールまでの急速な撤退を命じた。プレザントヒルの戦いにおける両軍はほぼ同数の1,600名の損失を出した。北軍にとっては戦術的勝利だったが、上流で何ものも得られなければ北軍の努力も徒労になったので、南軍の戦略的勝利となった。
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プレザントヒルの戦い
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「サビーン郡 (ルイジアナ州)」の記事における「プレザントヒルの戦い」の解説
南北戦争のとき、サビーン郡は郡で結成された部隊にかなりの支持を与えた。歴史家のジョン・D・ウィンターズはその著作『ルイジアナでの南北戦争』(1963年)で、「貧しい松の丘の郡が、サビーンライフル隊、サビーン・レベルズ、サビーン志願兵隊およびジョーダンの中隊に資金を出す投票で、その出身者に対する義務に直面し、また既に前線に出ていた別の中隊には500ドルを送った。」と記している。 サビーン郡はルイジアナ州では最後の大きな戦闘の舞台になった。1864年4月9日、古いプレザントヒルおよび、サビーン郡とデソト郡の郡境で戦闘は起こった。前日にマンスフィールドで南軍が勝利したことに続くものだった。この戦闘後、北軍はシュリーブポートからナケテシュに繋がる道路を撤退した。この道はサビーン郡の北東部を横切っていた。 この戦闘は非常に重要なものと考えられた。戦争全体の結末には影響しなかったが、北軍のシュリーブポートを占領し、テキサス州を他の南軍地域から分離させようという試みを砕いた。 サビーン郡出身の南軍士官にはクリストファー・コロンバス・ナッシュがおり、戦争捕虜としてオハイオ州のジョンソンズアイランドに囚われた。後にナッシュはグラント郡の保安官となり、1873年のコルファクス暴動で衝突し、1874年には白人同盟の最初の支部を作った。
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