プラハ訪問の背景
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/02 03:30 UTC 版)
「モーツァルトとプラハ」の記事における「プラハ訪問の背景」の解説
ダニエル・E・フリーマンは、1780年代のモーツァルトが活動拠点にするほど魅力的であった当時のプラハの状況に対し、最も包括的な評価を行った。モーツァルトがプラハに魅力を感じていた理由を探る上で最も重要なことは、プラハの人口増加により、音楽好きの人々の数がその数十年前と比べて増加していたということだ。1612年に神聖ローマ皇帝ルドルフ2世が亡くなったことでハプスブルク帝国の宮廷がプラハから移出し、さらに30年戦争の影響もあって深刻になっていた人口減少問題からようやく立ち直った直後の時期に、モーツァルトがプラハを訪問した。国王はウィーンに住んでいたものの、プラハは常にボヘミア王国の首都としての確固たる威厳を保ってはいた(ボヘミア国王は神聖ローマ皇帝とハプスブルク家主を兼任していた)。しかし、ルドルフ2世の死後、プラハがヨーロッパの中心地という地位に見合った文化施設を再建するのには約1世紀もの年月を要し、ボヘミアの有力貴族たちによる経済援助なしには立ちゆかなかった。市民生活が回復すると、新たに壮麗なオペラ劇場の建設が実現した。劇場は1783年にオープンし、当時はボヘミア王国の国立劇場として知られていて、建設費用は見識ある貴族、フランツ・アントン・フォン・ノスティッツ=リーネックにより、たったひとりでまかなわれた。 劇場はのちにボヘミア王国によって買い取られ、現在はエステート劇場として知られている。モーツァルトの音楽活動の中でもオペラの上演の重要性を考慮すると、この劇場の建設は、1786年に彼がプラハの街と深いつながりを持ち始める上でほとんど必須であったと言えるほど重要な役割を果たした。プラハオペラオーケストラを中央ヨーロッパにおいて最も優れたアンサンブルに仕立て上げたヨハン・ヨーゼフ・ストロバッハという素晴らしい指揮者の台頭もまた、モーツァルトがプラハに惹かれた決定的な理由であった。プラハ出身のミュージシャンたちと、前例のないほど国際的なつながりを持っていたデュシェック夫婦(フランティシェク・クサヴェル・デュシェックとヨゼーファ・デュシェック)がボヘミアの地に残ることを選んだことも、プラハの街を魅力的にした要素であった。ヨゼーファは特に頻繁にモーツァルトの故郷であるザルツブルクを訪れていたので、モーツァルトとは深い親交があった。ザルツブクにはヨゼーファの親戚がいて、彼女の祖父はかつてザルツブルク市長を務めていた。 モーツァルトのプラハ訪問の直接の動機は、1783年に制作し、エステート劇場で最初に上演されたオペラの一つである『後宮からの誘拐』が大盛況だったことで、プラハにおいてモーツァルト作品への関心が高まったからであった。この公演によりプラハ市民はモーツァルトの器楽に対する関心を高め、1786年5月にウィーンで初演された際にはそこそこ成功したという程度にすぎなかった『フィガロの結婚』がエステート劇場で上演されることとなった。
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