ファルケンハウゼンの対日戦術
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「中独合作」の記事における「ファルケンハウゼンの対日戦術」の解説
1935年1月、ファルケンハウゼンは、中国国防基本方針と題する対日戦略案を蔣介石に提出する。そのなかで、日本が攻撃してきたとしても、日本はソ連対策をとらざるをえず、また中国に利害をもつ英米とも対立すること、そして日本はそのような全面的な国際戦争には耐えられないこと、従って、中国は長期戦に持ち込み、できるだけ多くの外国を介入させることをファルケンハウゼンは提案した。また同年10月1日には、漢口と上海にある租界地の日本軍を奇襲し、主導権を握ることを進言している。ファルケンハウゼンは中国にとっての第一の敵を日本、第二を共産党ととらえていたのである。しかし、蔣介石や何応欽らは当初、第一の敵を共産党とみなしていたため、ファルケンハウゼンの進言に反対した。しかし1936年4月1日にファルケンハウゼンは「欧州で第二次大戦が開始し、英米の手が塞がらないうちに、対日戦争を踏み切るべきだ」とさらに進言した。 かつてゼークトの立てた計画はドイツの軍事理論に基づいており、国民革命軍を十分な装備と訓練を受けた60個師団へと縮小させることを要求していた。しかし、軍のどの部門を廃止かが問題となっていた。黄埔軍官学校で訓練された将校達は、各地の元軍閥の将校より優れており、蔣介石の政治的優位を支えるのに役立った。国民革命軍の内、8個師団はドイツ式に訓練されて主力となった。この改革は、蔣介石が盧溝橋事件後に日本に対する徹底抗戦に踏み切る決断の要因のひとつとなった可能性がある。しかし、国民革命軍はまだ強化途中であり日本軍に対抗できるほどの力を持っていなかった。蔣介石は、幕僚とファルケンハウゼンの反対にも関わらず、1937年の上海戦に全兵力の3分の1を投入し、貴重な戦力を失った。 ファルケンハウゼンは蔣介石に対し、消耗戦に持ち込んで日本軍を疲弊させることを提案した。それは、黄河の防衛線を守ること、ただし当面の間は黄河北部を攻撃しないこと、そのために山東省を含む中国北部を放棄すること、撤退を急がないことなどから成っていた。さらに、鉱業地帯、海岸、河川に陣地を構築し、ゲリラ作戦を取ることを勧めた。そうすれば、日本が徐々に消耗していくだろうと説明した。ゲリラ戦は、第二次国共合作で提携した共産党の得意技であった。 ファルケンハウゼンは、中国の国民革命軍が日本軍に抵抗できるだけの装備を確保するのは当面は難しいだろうと予想していた。中国の産業は近代化を始めたばかりであり、ドイツ国防軍並の装備をするには時間がかかると考えていた。そのためファルケンハウゼンは、浸透戦術を取り、小型兵器を装備した機動部隊の設立が必要だと論じた。
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