ピロストラトス
ピロストラトス
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ピロストラトスまたはフィロストラトス(古希: Φιλόστρατος, Philostratos ; 羅: Philostratus ; 170年頃 - 240年代頃[1])は、ローマ帝国期のレムノス島出身のギリシア語著述家・弁論家・第二次ソフィスト。
注釈
- ^ あるいは「ルキウス・フラウィウス・ピロストラトゥス」(Lucius Flavius Philostratus)というローマ市民式の名前も持っていた[6]。
- ^ a b 彼が「アテナイのピロストラトス」(羅: Philostratus Atheniensis, 英: Philostratus of Athensまたは英: Philostratus the Athenian)と称される理由は、当時のレムノス島がアテナイ領でありアテナイ市民権をもっていたため、あるいはギリシア文化の中心地であるアテナイがあこがれの的だったためとされる[9][8]。
出典
- ^ Owen Hodkinson (2019年10月30日). “Lucius Flavius Philostratus” (英語). Oxford Bibliographies Online. 2020年8月26日閲覧。
- ^ 勝又泰洋 (2017年). “研究ノート 「第二次ソフィスト運動」の知識人たちとの対話”. 日本西洋古典学会. 2020年8月26日閲覧。
- ^ a b ピロストラトス、エウナピオス 著 / 戸塚七郎、金子佳司 訳 2001.
- ^ a b 秦 2010.
- ^ a b c 内田 2008, p. 211.
- ^ “Philostratus - Livius”. www.livius.org. ヨナ・レンダリング. 2020年9月1日閲覧。
- ^ “Philostratus - Livius”. www.livius.org. ヨナ・レンダリング. 2020年9月1日閲覧。
- ^ a b c d ピロストラトス、エウナピオス 著 / 戸塚七郎、金子佳司 訳 2001, p. 383ff.
- ^ 桑山 2010, p. 3.
- ^ “Philostratus - Livius”. www.livius.org. ヨナ・レンダリング. 2020年9月1日閲覧。
- ^ ピロストラトス、エウナピオス 著 / 戸塚七郎、金子佳司 訳 2001, p. 383-390.
- ^ “A Byzantine commentary on Philostratus' "Life of Apollonius"”. www.livius.org. ヨナ・レンダリング. 2020年9月1日閲覧。
- ^ 内田 2008, p. 214.
- ^ 南條, 竹則 『蛇女の伝説「白蛇伝」を追って東へ西へ』平凡社〈平凡社新書〉、2000年、116-142頁。ISBN 978-4582850598。
- ^ ピロストラトス、エウナピオス 著 / 戸塚七郎、金子佳司 訳 2001, p. 4.
- ^ 平松哲司「ベン・ジョンソンの男性的雄弁の美学 : Timberの詩論を通じてジョンソンの詩を読む」『城西人文研究』第12巻、1985年、129頁。
- ^ Penella, Robert J. (1979). “Philostratus' Letter to Julia Domna”. Hermes 107 (2): 161–168. ISSN 0018-0777 .
- 1 ピロストラトスとは
- 2 ピロストラトスの概要
- 3 人物
- 4 参考文献
ピロストラトス
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古代ギリシアの著述家ピロストラトスによると、メリケルテースをイストモスに受け入れたのは他ならぬポセイドーンであった。すなわち『エイコネス』でパライモーンを描いた絵画について説明する中で、眠っているメリケルテースがイルカによってイストミアに運ばれたことや、ポセイドーンが微笑みながらイストモスの地に命じてメリケルテースを受け入れさせたこと、またシーシュポスにメリケルテースの到来を告げ、パライモーンへの供儀を命じたことを語っている。またピロストラトスはシーシュポスの行った最初の犠牲式が秘儀であり、イストモスの港を作ったのはメリケルテースであるとも語っている。
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