ビクター・デルノアと平和祈念式典
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/11 07:18 UTC 版)
「長崎原爆犠牲者慰霊平和祈念式典」の記事における「ビクター・デルノアと平和祈念式典」の解説
1946年9月に着任した占領軍長崎軍政部司令官のビクター・デルノア中佐は、第二次世界大戦中、ヨーロッパ戦線において戦車隊長としてドイツ・ワイマール近郊のブーヘンヴァルト強制収容所の収容者や、近隣で収容されていた連合国側捕虜を解放し、その際にナチス親衛隊が収容所でナチスに抵抗したドイツ国民や同性愛者、ユダヤ人に対する拷問・人体実験の証拠隠滅の為に収容者を虐殺した遺体を見てアメリカの正義への確信を深めていた。 デルノアは1946年10月12日の長崎市西坂公園の真宗大谷派の門徒の原爆犠牲者の慰霊式や、小学校を仮病棟にした長崎医科大学付属病院の被爆者の患者の惨状を見て、原爆投下によって兵士でない一般市民が犠牲になった事でアメリカの正義がドイツのナチスの所業と同じではないかと感じるようになった。GHQ占領当時、米兵と米国民の安全を確保するために反米運動の契機となる情報提供が禁止されていたのと、東京裁判において日本軍の一般市民に対する空爆が戦争犯罪として審理対象になっていなかったことから(ジョン・ダワー談)、原爆についての報道の全面禁止が占領軍の方針であった。しかし、原爆投下の正当性を疑問視していたデルノアは、長崎着任の半年後に当時14歳だった石田雅子の被爆体験手記を出版させようとしてGHQに許可を取ろうとした。GHQはそれを認めなかった。 1948年にデルノアは、長崎軍政部司令官として「原爆は人類を滅亡させる無用の長物、二度と原爆を使ってはいけない」「あの日の事、死んだ人の思いを生きている人が伝える」と述べて、第1回長崎平和祈念式典を長崎市に許可した。この式典で行った演説原稿を含む、デルノアの個人文書類が、アメリカ合衆国メリーランド州、メリーランド大学、ゴードン・W・プランゲ文庫にて保管されている。 1949年にデルノアは長崎を離任した。
※この「ビクター・デルノアと平和祈念式典」の解説は、「長崎原爆犠牲者慰霊平和祈念式典」の解説の一部です。
「ビクター・デルノアと平和祈念式典」を含む「長崎原爆犠牲者慰霊平和祈念式典」の記事については、「長崎原爆犠牲者慰霊平和祈念式典」の概要を参照ください。
- ビクター・デルノアと平和祈念式典のページへのリンク