ヒンドゥー教徒とムスリムの対立
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「ポロ作戦」の記事における「ヒンドゥー教徒とムスリムの対立」の解説
先述したように、ハイダラーバードは君主をはじめとする支配者層はムスリムで、上級官僚にいたっては8割がムスリムであり、ジャーギールダールと呼ばれる大土地所有者もムスリムの存在が顕著であった。1927年設立のムスリム統一協会はムスリムの統合やその利益の保護を目的とし、ニザームとその体制を積極的に支持していた。 他方、藩王国内には正規軍のほかにムスリム統一協会によって設立され、その傘下にあったラザーカールと呼ばれるイスラーム義勇軍、つまりムスリムの非正規軍も存在した。彼らは藩王国内におよそ20万人いたとされる。ムスリム統一協会およびラザーカールの総裁カーシム・ラズヴィーは藩王国政府内に大きな影響力を持ち、インド政府との対決姿勢を崩そうとしなかった。 だが、住民の大半を占めたのはヒンドゥー教徒であった。1931年の統計における宗教別人口はムスリムが11パーセントなのに対し、ヒンドゥーは84パーセントを占めており、単独での独立に領内の大多数のヒンドゥー教徒は反発した。また、この統計ではムスリムは都市部に人口が集中していた。さらに反体制派のハイダラーバード藩王国会議派やテランガーナ地方を基盤としたアーンドラ大協会があり、前者はインド国民会議派、マハトマ・ガンディーの影響をうけていた。 やがて、不平不満から共産主義が支持を受けるようになり、1944年になるとアーンドラ大協会の指導部は共産主義者が占めるようになった。そして、1946年7月からテランガーナ地方で、のちにテランガーナ闘争と呼ばれる大規模な農民の蜂起が発生した。貧しい農民たちはこの地域の43パーセントを保有するジャーギールダール、それを認めるジャーギールダーリー制度に不満を抱いていた。 当初、共産主義者はザミーンダール、デーシュムクと呼ばれる支配者層を狙ったが、すぐにニザームに対して本格的な反乱を開始した。この反ニザーム政府運動の一環として大規模な闘争となって、1947年末までには2,000とも言われる村落自治政府が樹立された。そこでは共産党の指導下で行政・司法・軍組織の整備、土地の接収、分配など行われていた。 ラザーカールもまた、ヒンドゥー教や共産主義を鼓舞し、テランガーナ闘争の反動で過激化していった。1946年の暮れになると、共産主義者とラザーカールとの衝突は激しさを増し、両者は残酷な方法をとったことで、ますます険悪になった。インド国民会議派の政治家によると、ラザーカールは村を封鎖した後、疑わしい共産主義者を一斉捕獲し、略奪、虐殺するといった行動に無差別的かつ組織的に従事していたとされている。またインド政府のパンフレットによると、1948年までに2,000人が殺害されたとされる。この衝突の影響で4万人近い人々が難民となってハイダラーバードから逃げたとされる。 他方、1947年8月にインドが独立したのち、インド支配領域からムスリム難民が流入したことも留意しなければならない。1948年10月の情報では、ハイダラーバード国内には一日1,000人から1,500人の難民が流れ込み、その総数は1万5千人から2万5千人に達していた。その原因はインド・パキスタン分離独立による宗教対立の影響であり、インド政府やハイダラーバードに隣接する州政府によると、ニザームとムスリム統一協会の傘下にあった。
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