パレードと広島フラワーフェスティバル
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/25 14:36 UTC 版)
「平和大通り」の記事における「パレードと広島フラワーフェスティバル」の解説
1965年(昭和40年)10月、自衛隊発足15周年記念として第13師団観閲式が初めて行われた。市民団体による反対運動の中、市長の浜井信三は道路使用を許可し、鶴見橋から西へ進み白神社前まで行進、反対側の市民感情に配慮し平和公園前までは行かなかった。参加隊員1,600人、参加車両は戦車14両を含む190両、市民約30,000人が見物した。翌1966年(昭和41年)も同ルートで行われている。 1975年(昭和50年)、被爆30年目にあたり変化があった。8月6日広島平和記念式典で、平和公園前900mが初めて車両通行止めとなった。そして、「静」となる鎮魂の式典に対し「動」となる華やかな祭りで平和と生きている尊さを喜び合おうと、大規模な祭りの構想が地元紙中国新聞社や地元自治体首長などによって考えられていた。 そこへこの年のプロ野球において、地元広島東洋カープが球団創立25年目にしてセ・リーグ初優勝を果たした。と同時に球団主催で優勝パレードが企画された。当初広島県警察は否定的であったが勢いに押され了承、優勝決定から5日後にあたる10月20日西観音町(現西区)から田中町(現中区)までの2.7kmでパレードが行われた。沿道を人が覆い、約30万人(県警発表)が詰めかけた。この後、広島東洋カープの古葉竹識監督は広島市の荒木武市長と対面した際に「広島には大きな祭りがない。ぜひつくってほしい。」と懇願した話がある。 こうした流れから宮澤弘県知事・荒木市長・山田克彦広島商工会議所会頭らが会談を行い、1976年(昭和51年)9月市民の祭典「ひろしまフラワーフェスティバル」が開催が決定され、翌1977年(昭和52年)から毎年開催されるようになった。 そしてフラワーフェスティバル開催以降、平和大通りは広島のシンボルロードとして認識されていった。
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