パレモナスの伝説
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/20 06:53 UTC 版)
伝説では一族の創始者は、 ローマ皇帝ネロの親戚でその苛政を逃れて500の著名な家族世帯とともにネマン川の河口やドゥビサ川やユーラ川からのネマン川付近に辿り着いたパレモナスというローマ人である。 ここで彼等は低地のジェマイティヤというところに住み着いた。伝説は、ストリイコフスキイによって、移動した時期が401年と幾らかアレンジされた。それによるとリトアニア人の祖先はアッティラの攻撃から逃れたとのことである。リトアニア人はローマ人から派生し且つリトアニア国家はローマ国家から派生したことを証明するために 15世紀 ないし16世紀に伝説が生み出されたと見做されている。 伝説の作者はリトアニアやベラルーシの地理にかなり疎かった、それ故に多くの間違いや矛盾が見出される。それ以外にも多数の年代確定の問題が存在しており、またその他の出典資料とは一致しない。原典の大部分がナヴァフルダク周辺に関係していることから、伝説はちょうど、この都市で生まれた可能性が高い。 パレモナスの伝説はロシアの歴史家の間でかなり幅広く検証されてきた。『ブィホヴィエツ年代記』が刊行されるまで多くの歴史家がストリイコフスキイによる伝説の創作に信頼をおいていたが、В. Н. タンツェフ は伝説の幾つかの要素は、一連のもっと初期の学者が有している点に注目した。伝説の歴史については既に18世紀にН. М. カラムジンが『баснословны и явно основаны на догадках』でリトアニア人の起源を書くことで疑問を呈していた。 『ブィホヴィエツ年代記』が発見されるとテオドラス・ナルブタスによって研究された。ナルブタスは物語の真実性に信頼を置く一方で英雄の子孫と見做すリトアニア人のローマ起源の見解については否定した。他方、より後のリトアニア史の著作の集大成を敢行したИ. ヤロシェヴィチはナルブタスの姿勢の大部分を受け入れる一方でリトアニア人がローマから移住した伝説を「寓話の真実性」と名付けた。 ソヴィエトの歴史家は『ブィホヴィエツ年代記』が1966年にロシア語で出版された後に同書の研究を始めた。その中の一人であるБ. Н. フロリヤはリトアニア人誕生の伝説はガシュタウタイ家主導の創作であるとの見解を出した。別の歴史家であるА. А. チェミェリツカガは、伝説はリトアニアのルーシに対する優位性を証明するために創作されたと見解を出した。その一方でこれ等に同意しない Н. Н. ウラシクは最初の枠組みがナヴァフルダク公国、即ちルーシが抜け落ちているからと反論した。
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