バリ島の戦い・ティモール島の戦い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/01 07:58 UTC 版)
「蘭印作戦」の記事における「バリ島の戦い・ティモール島の戦い」の解説
詳細は「チモール島の戦い(英語版)」を参照 2月19日、金村支隊(第48師団台湾歩兵第1連隊の一部)がバリ島に上陸した。守備隊の抵抗はほとんどなかった。だがカレル・ドールマン少将を司令長官とするABDA艦隊のうち軽巡洋艦3隻、駆逐艦7隻が出撃し、19日深夜から20日早朝にかけてバリ島沖海戦が生起した。日本艦隊は駆逐艦4隻と劣勢であったが、ABDA艦隊は多国籍艦隊のため部隊として円滑に行動できるものではなかった。日本軍が駆逐艦1隻大破の損害を受けたのに対して、ABDA艦隊は駆逐艦1隻が沈没、軽巡洋艦1隻が中破し撃退された。 当時のチモール島は西半分がオランダ領、東半分が中立国であるポルトガル領であった。開戦直後の12月12日に、事前の協定に基づきオーストラリア軍が上陸していた。20日未明に東方支隊による上陸作戦が行われた。チモール島西部のクーパンには伊東支隊長が指揮する歩兵第228連隊第1、第3大隊基幹の部隊が上陸し、さらに横三特の空挺部隊が降下した。連合軍の守備兵力は1,940名(オーストラリア軍1,500名、蘭印軍240名、現地軍200名)であった。日本軍は3方向からの包囲攻撃を企図したが、連合軍はクーパンを放棄して退却しようとした。退路を塞いでいた日本軍の右翼隊200名は連合軍の脱出を阻止しようとしたものの半数が死傷する損害を受け突破された。日本軍は追撃し23日に連合軍は降伏した。連合軍の遺棄死体は296、捕虜1,136名であった。東方支隊の損害は戦死67名、戦傷56名であった。 同日、ポルトガル領ティモールのディリにも土井連隊長の指揮する第2大隊基幹の部隊が上陸した。連合軍の守備隊は1,300名(オーストラリア軍300名、蘭印軍400名、現地軍600名)で、大部分は山地に逃亡した。捕虜は33名であった。同地にあったポルトガル軍はこのときも抵抗しなかった。東方支隊の死傷は7名であった。
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