バスとの競争と終焉とは? わかりやすく解説

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バスとの競争と終焉

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/10 10:16 UTC 版)

本庄電気軌道」の記事における「バスとの競争と終焉」の解説

以降当線は、児玉町中心とする児玉郡南部地区唯一の交通機関として運営続けていた。特に児玉方面へは金鑚神社大光普照寺への参詣出かける善男善女や、四方田にある産泰神社お祭り出かける地元民輸送など、日常生活以外の場面においても貴重なとなった。 しかし、開業6年目1920年突如激震走った。筑井馬車という会社が、本庄-児玉間に1日12往復バス走らせる表明したのである。これが実現すれば本数で劣る当線には大打撃となるところであった。 ところがこの件は意外な展開をたどった。筑井馬車は県からの許可受けて1921年7月からバス営業開始したものの、わずか4ヶ月定期運行休止し、後は権利維持するためだけに時折不定期に運行する程度営業しか行わなかったのである。しかもバス運賃片道50銭で当線の2倍近くと、まったくお話にならないものであった。これで当線の地位は揺らがずに済んだかと思われた。 ところが1924年今度は筑井馬車持っていたバス営業権児玉町事業者児玉自動車買収し本格的に営業開始した。しかも今度片道30銭と、明らかに当線に挑戦するような運賃設定であり、完全な競争路線となってしまった。 これに危機感持った松本社長は、当時県議会議員となっていたことから議会で県の対応を非難するとともに自分たちがかつて競争相手となる馬車会社買収するという形で競争避け一生懸命経営して来たことを訴えたが、県側からは「善処する」と返されどうにもならなかった。 やむなく会社1926年バス兼業申請し電車と同区間路線バス走らせることでささやかな抵抗開始した。しかしそのうちに、電車担っていた鬼石方面からの旅客バス流れ旅客著し減少起こり始めた。さらに昭和に入ると八高線児玉町中心部を通る予定であることが判明し存在意義大きく揺らぐ事態になった。 そこで会社1930年6月1日全線休止し休止延長しながら様子見ていた。しかし一向に復活出来そう気配見えかったばかりか、懸念事項だった八高線1931年7月1日開通して児玉駅開業したことにより、当線を用いて本庄駅経由する必然性なくなってしまい、いよいよ追いつめられ会社廃止決意することになった。そして1933年5月1日、当線は休止のまま廃止となり、19年間の生涯ピリオドを打ったであった廃止後、会社兼業であったバス事業本業転換しバス専業会社となった。この路線はのちに東武鉄道引き継がれ、現在は朝日自動車路線となっている。

※この「バスとの競争と終焉」の解説は、「本庄電気軌道」の解説の一部です。
「バスとの競争と終焉」を含む「本庄電気軌道」の記事については、「本庄電気軌道」の概要を参照ください。

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