バイロイトの「ケーペニキアーデ」
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「カール・ルート」の記事における「バイロイトの「ケーペニキアーデ」」の解説
まもなくしてアメリカ軍に保護されたルートは、無実の罪で投獄されていたベルギーの将校を自称し、記章のないアメリカ軍将校の制服を借りて囚人服から着替えた。その後、ルートはバイロイトの運命自体を左右する働きをすることとなる。 彼は護衛の兵士と共にジープに乗り、バイロイト市街へと戻った。1945年4月14日の午前中、ルートはアメリカ軍による「公式の命令」に基づくと嘘をつき、聖ゲオルク監獄から囚人2,000名全員を解放させた。この中には後の連邦議会議長オイゲン・ゲルステンマイアー(ドイツ語版)やエヴァルト・ナウヨクス(ドイツ語版)らも含まれていた。当時、アメリカ軍の接近を察知した聖ゲオルク監獄では、4月14日に囚人のうち政治犯全員を射殺することが決定していた。 監獄解放後、ルートはバイロイト市長フリードリヒ・ケンプフラー(ドイツ語版)SS大佐(後CSU)の元を訪問し、アメリカ軍側指揮官が待つコッテンバッハの村に向かうようにと命じた。この際のアメリカ軍側指揮官との会談において、ケンプフラーはアメリカ軍が「既に市街を消滅させる為に十分なだけの火砲の準備を整えている」旨に納得した。 しかし、市長である彼の指揮下にあるのは警察組織のみで、軍部隊に対しては何ら権限を有していなかった。バイロイトの無血降伏には、聖ヨハネス街(ドイツ語版)にて徹底抗戦を図っている防衛司令官アウグスト・ハーグル陸軍少将(August Hagl)の説得が必須であった。ドイツ側の提案によって、ルート、ケンプフラー、ハーグルによる会談が実現したものの、説得は失敗に終わった。この9時間後、街の反対側にあたる勝利塔(ドイツ語版)にて籠城していたエーリヒ・ブラウン少尉(Erich Braun)以下およそ150名が投降するが、それでもハーグルの態度は変わらなかった。ルートとケンプフラーはアメリカ軍の空爆再開に反対し続けたものの、結局ハーグルの説得は不可能だと判断され、砲撃と限定的な空爆を以ってして攻撃が始まり、同日中にバイロイトは降伏した。この最終段階における攻撃で、エルミタージュ公園(ドイツ語版)のオランジェリー(ドイツ語版)や太陽宮(Sonnentempel)が不必要に破壊された。ハーグルの最後の指揮所はこれらの施設ではなく、聖ヨハネス教会の地下に設置されていたという。
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