ニューイングランド自治領、総督としての短期間の復帰
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「サイモン・ブラッドストリート」の記事における「ニューイングランド自治領、総督としての短期間の復帰」の解説
「ボストン暴動」も参照 1684年、国王チャールズ2世はニューイングランド自治領を設立した。それまで植民地代理人の1人となっていたブラッドストリートの義弟であるジョセフ・ダドリーが、1685年に就位した国王ジェームズ2世からニューイングランド委員会議長に任命され、1686年5月には植民地を支配するようになった。ブラッドストリートはダドリーの評議員就任を提案されたが、それを拒否した。ダドリーは1686年にエドマンド・アンドロスと交代させられた。アンドロスはイングランド国教会のために会衆派教会の資産について土地の権利を無効にし、押収したためにマサチューセッツで酷く嫌われた。アンドロスの高圧的な統治は自治領に入った他の植民地でも不人気だった。 アンドロスに対して革命を起こすという概念は1689年1月に既に起きており、それは1688年の名誉革命の知らせがボストンに到着する以前のことだった。ウィリアムとメアリーが王座に就いた後、ロンドンに居たマサチューセッツの代理人であるインクリース・マザーとウィリアム・フィップスが請願を行い、貿易省がマサチューセッツの植民地認証を回復させた。マザーはさらに貿易省を説得して、アンドロスに革命のことを知らせるのを遅らせた。マザーはブラッドストリートに宛てて既に知らせを含む文書を発信していた。それには植民地認証が違法に無効化されたこと、役人は「人々の心に変化の準備をさせる」べきことを述べた報告が、革命前に準備されて入っていた。革命の知らせは3月下旬には特定の個人レベルには届いており、ブラッドストリートは1689年4月18日にボストンで発生した暴動を組織した可能性がある数人の1人だった。ブラッドストリートは他の自治領を支持する役人やアンドロスの評議員数人と共に、その日に暴動を鎮めるためにアンドロスの降伏を要求する公開状を送った。安全地帯であるキャッスルアイランドに逃亡したアンドロスが降伏し、数か月拘束された後で最後はイングランドに戻った。 アンドロスの逮捕の後で、安全委員会が結成され、ブラッドストリートがその委員長になった。この委員会はウィリアムとメアリーに宛てた文書を起草し、ウィリアムがイングランドに入る時の宣言に使ったのと似た言葉で植民地の行動を正当化した。委員会は植民地政府の姿を古い認証の下にあったものへ、かなり速やかに復させた。この政府形態でブラッドストリートが総督に復帰し、1692年まで毎年再選された。ブラッドストリートは古い支配体制を再導入することに反対する人々に対して植民地を守る必要があり、ロンドンに宛てた手紙でこれらの人々を問題を起こす反体制派の異邦人だと説明した。植民地の北部フロンティアはウィリアム王戦争(1688年-1697年)の渦中にあり、インディアンによる襲撃が繰り返されていた。ブラッドストリートはウィリアム・フィップスが1690年にアカディアとケベックに対して起こした遠征を承認した。 1691年、ウィリアムとメアリーがマサチューセッツ湾直轄植民地を設立する認証を発行し、フィップスをその初代総督に任命した。新総督が1692年に到着したときに、ブラッドストリートはフィップスの評議員の地位を提案されたが、辞退した。ブラッドストリートは1697年3月27日、セイラムの自宅で死去した。93歳だった。高齢になるまで活躍したので、コットン・マザーは彼のことを「ニューイングランドのネストール」と呼んだ。
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