ナイター球場建設構想
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「広島市民球場 (初代)」の記事における「ナイター球場建設構想」の解説
1952年、「広島市にナイター設備を備えた球場を作ろう」と言い始めたのは、当時のカープを金銭面からバックアップしていた東洋工業の松田恒次社長だった。カープの石本秀一監督はその言葉に有頂天となり、自ら球場設計に取り組んだとされる。翌1953年になると、広島市民の間でも「ナイター球場待望論」が日ごとに高まり、中国新聞社へは読者からの投書が相次いだ。 こうした待望論が一気に高まりを見せたのは、当時、カープを除く他球団が本拠地へナイター設備を次々に導入したためである。その一方で、当時の水準から見ても設備面で見劣りした広島総合球場にナイター設備などあるはずもなく、カープ主催の週末の試合は、日曜日昼間に必ずと言ってよいほどダブルヘッダーが組み込まれており、炎天下での連戦を強いられた選手達の疲労は並大抵なものではなかった。また広島総合球場は、当時交通の便が悪い上にスタンドのキャパシティも小さく、さらに炎天下での観戦を強いられるとあっては、観客増による増収で球団経営の安定を図ろうにも限度があった。 1954年、広島市の浜井信三市長と広島市議会議長が、東京で開かれた「広島市建設促進協議会」の席上にてナイター球場の話題で花を咲かせたことがきっかけとなり、同年3月、広島市議会に「市営野球場設置対策委員会」が設置された。さらに8月には、同委員会に広島県、地元経済界、カープ球団が加わった「市営市民球場建設促進委員会」へと発展し、そして10月には「広島市基町へ市税を使わず市営ナイター球場を建設する」という結論が導き出された。 だが、ナイター球場の建設予定地とされた基町には、通称「十軒長屋」と呼ばれた市営住宅が多数存在し、住人達は「自らの住む住宅を潰してまでナイター球場を作るのは不当だ」と激しく反発、連日に渡って市役所前で計画再考を求めて抗議運動が行われる事態になった。その一方でカープの後援会側は、「何故早く建設しないのか」と浜井市長に再三に渡って詰め寄り、55,000人の署名簿を広島市に提出するなど、利害関係は入り乱れ、ナイター球場建設の先行きは全く不透明な情勢になった。
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