ドン・ラーセン
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/03 23:33 UTC 版)
「1956年のメジャーリーグベースボール」の記事における「ドン・ラーセン」の解説
ドン・ラーセンは殿堂入りするほどの実績はなく、大リーグ14年間で7球団を渡り歩いて通算81勝91敗の成績であった。彼は1947年にサンディエゴのポイント・ロマ高校を卒業後、セントルイス・ブラウンズと契約してマイナーリーグで6年の経験を積んでから1953年にメジャーデビューした。ブラウンズの選手として1年、翌年にボルチモアへ移ってボルチモア・オリオールズで1年間プレーして3勝21敗の成績でこの年の最多敗戦投手となった。それでもヤンキースのケーシー・ステンゲル監督が身長193センチで大型投手としてその素質を見込んでヤンキースにトレードされた。1955年は9勝2敗のまずまずの成績でこの年秋に日米野球でヤンキースの一員として来日し予想外にいいとステンゲルは思った。翌1956年の春のキャンプ地で門限を無視して飲み歩き酔っ払い運転で電柱にぶつかる事故を起こしたがステンゲル監督は不問に付した。そしてこの年のシーズンは11勝5敗の成績で初めて先発陣の一翼を担った。そしてワールドシリーズでは対ドジャース第2戦に先発したが序盤に6点リードしたがすぐに6点取られて2回で降板した。その後両チーム2勝2敗で迎えた重要な第5戦にラーセンはマウンドを託された。6万4519人の観客の前で、主砲マントルの本塁打で先制し7回に1点追加して2対0となり、あれよあれよと言っている間にラーセンは完全試合を達成した。この試合の後半にはラーセンは振り被らずに投げるノーワインドアップ投法に切り替えたことも好結果につながった。ギリアム(二)、リース(游)、スナイダー(中)、ロビンソン(左)、ホッジス(一)、アモロス(右)、フリロ(三)、キャンパネラ(補)、マクリー(投)のこの時期のブルックリン・ドジャースの打線は強力であった。 ラーセンはその後1959年12月にアスレチックスとの交換トレード(この時の交換相手はロジャー・マリスであった)でカンザスシティへ移り、その後4球団を渡り歩いて1967年にレッズを最後にユニフォームを脱いだ。引退後はカリフォルニア州の製紙会社で働き、現在はアイダホ州で隠居生活を送っている。
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