ドイツ軍の襲撃
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/27 10:26 UTC 版)
1942年9月12日22時00分、独潜水艦U-156(英語版)は西アフリカ沿岸のアセンション島とリベリアの間の海域でパトロールを開始した。そして単独航行中のイギリス大型船舶を発見したため、艦長ヴェルナー・ハルテンシュタイン(英語版)少佐は攻撃を命じた。ラコニア号は当時の一般的な商船および軍隊輸送船と同様に武装していたため、保護の対象とはされず、U-156側にとっては警告なしに攻撃を行うことも適切な判断であった。 22時22分、ラコニア号は600m帯通信で以下のメッセージを発信した。 SSS SSS 0434 South / 1125 West Laconia torpedoed 「SSS」は「潜水艦による攻撃下にあり」を意味する符号である。メッセージは繰り返し打電されたものの、いずれかの通信局ないし船舶がこれを受信したという記録はない。 救命ボートは捕虜を含めた全員分が用意されていたが、船体が大きく傾斜していたため、そのうち半数しか切り離すことができなかった。船が沈み始めた時、イタリア人捕虜らは施錠された貨物倉に取り残されていたが、大部分はハッチを破るか換気シャフトを登って脱出した。捕虜らは救命ボート乗り場に殺到し、その混乱の中で数名が射殺され、またボートに乗り込もうとした捕虜の多数が座席を確保するために銃剣で刺殺された。 ポーランド兵は着剣した小銃で武装していたが、銃弾は支給されていなかったためである。残された目撃証言も、(恐らくはイギリス兵によって)射殺された捕虜は少数であり、大部分は銃剣で刺殺されていたことを示している。最後の救命ボートが切り離されるまでに大部分の生存者は海に飛び込んでいたため、座席が埋まらなかったボートも何隻かあった。船上には1隻のボートと捕虜たちだけが残された。 後に生存者が回想したところによれば、海に投げ出されたイタリア人がボートに登ろうとした時には、銃で撃つか、もしくは斧で手を切断することがあった。イタリア人たちが流した血の臭いによって、瞬く間にサメが集まってきたという。 サメは私たちの中に突っ込んできた。腕をひっつかみ、脚に食らいついた。他の大きな化物は、身体を丸ごと飲み込んでいた - 元捕虜、ディノ・モンテ伍長(Dino Monte) ラコニア号が沈み始めると、U-156は生き残った上級士官を捕えるために浮上した。そして、U-156乗組員たちは海上で漂いもがいている2,000名以上の生存者を目の当たりにしたのである。
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