トーマスの遺産
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/07/05 07:22 UTC 版)
「ジョージ・ヘンリー・トーマス」の記事における「トーマスの遺産」の解説
ウェストポイントの士官候補生たちはトーマスに「小走りのトーマス」という渾名を付け、この渾名はその評判を落とすために使われた。トーマスは背中を痛めていたために緩り動いたが、精神的には緩りとではなく、几帳面なだけであった。正確な判断と職業的な知識で知られており、一度問題の核心を掴み行動の時だと思えば闊達で素早い行動に出た。 カンバーランド軍の古参兵組織はその存在期間を通じて、戦った結果、その成したこと全てに対して名誉を受けるトーマスを見た。 トーマスは開戦から間もないミルスプリングスの戦いと終戦間近いナッシュビルの戦いの2つの戦闘のみで全軍指揮を執った。どちらも勝ち戦であった。しかし、ストーンリバー、チカマウガ、チャタヌーガ、およびピーチツリークリークの各戦闘におけるその貢献は決定的なものであった。その大きな遺産は近代戦場原理の開発と兵站の統制にある。 トーマスは概して南北戦争の歴史家達には高い評価を受けている。ブルース・カットンとカール・サンドバーグは彼のことを称賛に満ちて書いており、多くの者もグラントやシャーマンに次いで南北戦争における北軍の上位3人の将軍の一人にトーマスを上げている。しかし、トーマスはグラントやシャーマンのように大衆の意識に上ることは無かった。「その人生が印刷されて好奇心の目に曝される」ことを好まないと言って、私的な文書は破棄した。1870年代から多くの南北戦争の将軍達が回顧録を出版し、その決断を正当化し、あるいは古い戦闘を呼び覚ましたが、1870年に死んだトーマスは自身の回顧録を出版しなかった。 グラントとトーマスは、その全容が明らかでない理由で冷たい関係であったが、同時代人の証言は多い。チャタヌーガ方面作戦の前に雨に濡れそぼったグラントがトーマスの作戦本部に到着したとき、トーマスは他の行動に捉われており、副官が注意するまでの数分間将軍の存在に気付かなかった。トーマスが分かっていてやったナッシュビルでの遅延、これは天候のために止むを得ないことであったが、グラントは堪忍袋の緒が切れあやうく交代させるところであった。グラントの『個人的な回想録』ではトーマスの功績を矮小化する傾向があり、特にフランクリン・ナッシュビル方面作戦の時のことを、トーマスの動きが「いつも慎重に過ぎ鈍すぎる。ただし防御は効果的だ」と言っている。戦中にトーマスに近しかったシャーマンも戦後、トーマスが「鈍い」と繰り返し告発しており、この微かな称賛のある痛罵が20世紀に入ってもチカマウガの岩に対する評価に影響しがちになった。
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