テンプル騎士団の崩壊
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/08 05:42 UTC 版)
「リュジニャン家」の記事における「テンプル騎士団の崩壊」の解説
「en:Fall of Tripoli (1289)」および「en:Franco-Mongol alliance」も参照 ユーグ・ド・ポワティエは、母方の祖父がキプロス王ユーグ1世であり、リュジニャンの姓を名乗ることで第二リュジニャン家を興し、従兄弟の跡を継いでキプロス王ユーグ3世となった。1268年、コンラディンの処刑の後、ユーグはエルサレム王位についた。しかしユーグはエルサレム貴族と対立するようになり、1276年にキプロスに戻った。聖トマス・アクィナスは、ユーグのために『君主の統治について』を書いた。1284年、ユーグの息子ジャン1世がキプロス王位およびエルサレム王位を継承したが、1年後に死去した。ジャンは弟アンリ2世により毒殺されたと考えられている。1291年、エルサレム王国の最後の残存者がエジプトのスルタンアシュラフ・ハリールに捕まった。アンリはキプロスに逃げ、キプロスはアンリの統治下で反映した。アンリは記録の保管のため歴史上初めて「高等法院(Haute Cour)」を設置し、さらにそれを単なる諮問機関ではなく罪を裁く法廷とした。ペルシアとの同盟および2度にわたる教皇クレメンス5世に対する支援要請にも関わらず、アンリはエルサレム奪還の目標は果たされなかった。 アンリ2世はてんかんにかかり、統治することができなくなった。一部の貴族はアンリ2世の支配に不満を持った。キプロス軍司令官であった弟ギーは、テンプル騎士団の助けを借りた国家転覆を兄ティルス領主アモーリーにそそのかし、アンリ2世はギーを反乱を企てた罪で処刑した。この反乱は早期に軍事衝突なしに行われた。アモーリーはキプロス摂政となり、アンリ2世はアルメニアに逃亡したがアモーリーの義兄弟であるアルメニア王オシンにより幽閉された。アルメニアはヴェニス、ジェノヴァおよびホスピタル騎士団との関係を修復し、人気を回復した。1300年、ティルス領主アモーリー・ド・リュジニャンをはじめとするリュジニャン家一族は、聖地を奪還するためにガザン・ハン率いるモンゴルと軍事同盟を結んだが、成功しなかった。1307年、教皇クレメンス5世はフランス王フィリップ4世からの圧力により、すべてのテンプル騎士団員を逮捕しその財産を没収するよう命じ、アモーリーはそれに従わざるを得なかった。これにより、小規模の反乱が起こり、アンリを再び王とするために呼び戻したが、すぐに鎮圧された。逮捕されたテンプル騎士の中には、2名のイブラン家のメンバーを含む貴族が何名か含まれていた。アモーリーは1310年にシモン・ド・モントリフ(Simon de Montolif)に殺害された。アルメニア王オシンがアンリ2世を解放した後、ヨハネ騎士団の助けによりアンリは王位を奪還した。アモーリー派であった者は、アモーリーの死後支配者となっていた弟エメリーを含め、捕まった。
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