チリでの狼狽
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/11 15:58 UTC 版)
「ディエゴ・デ・アルマグロ」の記事における「チリでの狼狽」の解説
アルマグロは即座にアコンカグア川の谷に向かって新領土での探検を開始し、彼は現地人に暖かく迎えられた。しかしながら、彼の通訳であったフェリピロ(スペイン語版、英語版)(先住民族出身)の陰謀により、危うくアルマグロの努力は妨害されるところであった。フェリピロは以前ピサロが皇帝アタワルパを処刑するのを手伝った人物であった。 フェリピロは秘かにスペイン人を攻撃するよう地元の現地人に促したが、彼らは驚くべきことに思いとどまり、その危険を信じなかった。次に、アルマグロはゴメス・デ・アルバラードを70人の兵士と伴に騎馬で派遣し探検を続けさせ、彼らがスペイン人と敵対的なマプチェ族との間のレイノウェレンの戦い(スペイン語版、英語版)によってやむを得ず北に折り返した地点であるニュブレとイタタ川まで至った。 アルマグロ自身による陸地の偵察とゴメス・デ・アルバラードの獰猛なマプチェ族との遭遇という悪いニュースは、彼らの遭遇した厳しく寒い冬と共に、すべてが失敗したと確認するのに役立っただけであった。彼はインカの斥候が彼に知らせた黄金や都市を発見できなかったうえに、そこにあったのは、地方の部族からの激しい抵抗と農業により生計を営む現地人の共同体だけであった。2年続いたヌエバ・トレドの領土の探検は完全な失敗の烙印をアルマグロに押した。にもかかわらず、初めに彼が滞在し都市を建設したことは彼の名誉を満たすと考えた。アルマグロが土着パナマ人アナ・マルチナスとの間に儲けた息子をチリへ連れて来るように導いた初期の楽天主義は色あせた。出発するという彼の部下の進言がなければ、アルマグロはおそらく永久にチリにいたのではないかと観測する向きもある。しかしながら、彼はペルーに帰還し、このときをもって彼の息子が遺産を強固にするために最終的にクスコ領を得ることを促された。時間の無駄と狼狽もなく、アルマグロは1536年9月に彼のペルーへの帰還計画を開始した。 彼は現在のチリの領域内には都市を建設できなかった。チリの渓谷からのスペイン人の退出は強引であった。アルマグロは、配下の兵士が現地人の所有地から略奪し、それらの農地を荒廃させるままにすることを認めた。ただ一人のスペイン人も現地人のために自らの労力を割かなかった。地元民は、捕らえて、拘束され、同情もなく征服者の所有物をやむを得ず運んだ。
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