チリおよびアルゼンチンでの活動
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「ノーマン・アーマー」の記事における「チリおよびアルゼンチンでの活動」の解説
1938年1月17日、アーマーは駐チリ大使として任命を受けた。アーマーは4月21日に信任状を奉呈し、比較的平穏にこのポストを務めた。アーマーは1939年6月10日に駐チリ公使を退いた。1939年6月22日、アーマーは駐アルゼンチン大使として任命を受けた。アーマーは9月7日に信任状を奉呈した。その当時、第二次世界大戦が加熱し始めていたことから、アーマーには南米諸国とよりよい関係を構築することが求められた。それ以前、アメリカは南米諸国に対して、枢軸国を支援しないよう圧力をかけていた。特にアルゼンチンに対しては、タングステンを日本へと輸出しないよう要求していた。だがタングステンの輸出先はおよそ5割が日本であったことから、この要求はアルゼンチンにとって死活問題であった。アーマーはこの問題に対して交渉を試みたが、アルゼンチンは動くことを拒否し、表面上は中立の立場を維持し続けた。 1941年、ノーマンは第1回パンアメリカン競技大会の名誉理事に選ばれた。競技は1942年にブエノスアイレスで実施される予定であったが、不運にも第二次世界大戦の影響により中止となった。 第二次世界大戦末期の1944年1月26日、アルゼンチンはイギリスやアメリカからの圧力に屈し、枢軸国との関係を断絶した。だがその直後から、この決定を下したアルゼンチン大統領ペドロ・パブロ・ラミレスは親枢軸中立を掲げる統一将校団から非難を受けることになった。その結果ラミレス大統領は2月に失脚し、副大統領エデルミロ・ファレルによる政権が3月に成立した。アメリカはこの新政権を承認せず、アルゼンチンに対する経済制裁を発動した。アメリカはアーマーに対して、アルゼンチンに残留するよう命令を下した。しかしその一方で、新政府とは規定条件がクリアされるまではいかなる公的関係も築かないようにも要請した。アメリカはこれを親枢軸派による政変であると考え、1944年3月3日に国交を停止する決定を公式に下した。そしてアーマーは1944年6月27日に公式に駐アルゼンチン大使を退任した。 駐アルゼンチン大使退任後、アーマーは国務省ラテンアメリカ部の部長代行となり、1945年3月まで務めた。
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