チリおよびアルゼンチンでの活動とは? わかりやすく解説

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チリおよびアルゼンチンでの活動

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/27 02:51 UTC 版)

ノーマン・アーマー」の記事における「チリおよびアルゼンチンでの活動」の解説

1938年1月17日アーマーは駐チリ大使として任命受けたアーマー4月21日信任状奉呈し、比較平穏にこのポスト務めたアーマー1939年6月10日に駐チリ公使退いた1939年6月22日アーマーは駐アルゼンチン大使として任命受けたアーマー9月7日信任状奉呈した。その当時第二次世界大戦加熱し始めていたことから、アーマーには南米諸国よりよい関係を構築することが求められた。それ以前アメリカ南米諸国に対して枢軸国支援しないよう圧力をかけていた。特にアルゼンチンに対しては、タングステン日本へと輸出しないよう要求していた。だがタングステン輸出先はおよそ5割が日本であったことから、この要求アルゼンチンにとって死活問題であったアーマーはこの問題に対して交渉試みたが、アルゼンチンは動くことを拒否し表面上は中立立場維持し続けた1941年ノーマン第1回パンアメリカン競技大会名誉理事選ばれた。競技1942年ブエノスアイレス実施される予定であったが、不運に第二次世界大戦の影響により中止となった第二次世界大戦末期1944年1月26日アルゼンチンイギリスアメリカからの圧力屈し枢軸国との関係を断絶した。だがその直後から、この決定下したアルゼンチン大統領ペドロ・パブロ・ラミレスは親枢軸中立掲げ統一将校団から非難を受けることになったその結果ラミレス大統領2月失脚し副大統領エデルミロ・ファレルによる政権3月成立したアメリカはこの新政権承認せず、アルゼンチン対す経済制裁発動した。アメリカアーマーに対してアルゼンチン残留するよう命令下した。しかしその一方で新政府とは規定条件クリアされるまではいかなる公的関係も築かないようにも要請したアメリカはこれを親枢軸派による政変であると考え1944年3月3日国交停止する決定を公式に下した。そしてアーマー1944年6月27日に公式に駐アルゼンチン大使退任した。 駐アルゼンチン大使退任後、アーマー国務省ラテンアメリカ部の部長代行となり、1945年3月まで務めた

※この「チリおよびアルゼンチンでの活動」の解説は、「ノーマン・アーマー」の解説の一部です。
「チリおよびアルゼンチンでの活動」を含む「ノーマン・アーマー」の記事については、「ノーマン・アーマー」の概要を参照ください。

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