ダルマチアでのクロアチア国民復興
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/17 03:20 UTC 版)
「ダルマチア王国」の記事における「ダルマチアでのクロアチア国民復興」の解説
フランスとオーストリアの統治とクロアチア王国におけるイリュリア運動の思想は、ダルマチアでのクロアチア国民意識の目覚めに大きく貢献した。1835年、ボジダル・ペトラノヴィッチはザダルで「セルビア=ダルマチア雑誌」(クロアチア語: Srbsko-dalmatinski magazin)の印刷を始め、1844年にはアンテ・クズマニッチが「ダルマチアの黎明」(クロアチア語:Zora dalmatinska)という雑誌を立ち上げた。そして、それまで聖職者によってのみ奨励されていたダルマチアの言語的および国家的認識の確立に取り組み始めた。諸国民の春は当初、ヴェネツィア共和国の再建を望んでいたマルコ主義者(ヴェネツィアの守護聖人が聖マルコであることからこう呼称される)と、ハプスブルク家を支持する君主主義者との間に政治的分裂を引き起こした。選挙制度により裕福なイタリア人が都市とその議会を完全に支配していたため、ダルマチアとクロアチアの統一のための「同血同語のダルマチア兄弟」へのクロアチア王国の郡議会と市議会の提案は拒否された。しかし、なおもクロアチア国家運動は非常に強力であり続けた。自治党が統一を拒否したことに対して、ダルマチア後背地の牧師らと住民らはクロアチアのバンであるヨシップ・イェラチッチに書状を送り、彼らはまだ統一を求めており、反対派は非常に少数であると述べた。 1848年12月、オーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世はイェラチッチをダルマチア総督に任命した。これはスプリトとザダル(いずれも自治党の統治下)によって反対されたが、クロアチア人、特にドゥブロヴニクのクロアチア人は大きな期待を持ってイェラチッチと面会した。しかし、結局提案はほとんど実現されなかった。イェラチッチの役割は大部分が儀式的なままであり、ウィーンの裁判所が統一に関するいかなる議論も拒否したことが理由として大きい。 1851年、イェラチッチはダルマチアを訪れ、ドブロタで格別の熱意とともに歓迎された。また、統一の反対者(特にイタリア人)に対抗するためクロアチア人はダルマチア中に、主に「スラヴ」の名を冠した公立図書館と文化社会を設立した。こうした運動の結果、政府はクロアチア語をダルマチアの学校で第二言語として教えることを決定した。しかしそれでもクロアチア語が教えられている学校は多くなかったため、フランシスコ会は1854年、シニに最初のクロアチア語のギムナジウムを設立した。
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