ダルガの設置
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「投下 (モンゴル帝国)」の記事における「ダルガの設置」の解説
詳細は「ダルガチ」を参照 ダルガとはモンゴル帝国が征服民支配のために設置した軍制官のことで、テュルク語ではバスカク(basqaq)、ベルシア語ではシャフネとも呼ばれ、漢文史料では主に「達魯花赤」と音訳される。投下領主によるダルガ任命に関する記録は、ジョチがジャンド市の「統治と行政のため」チン・テムルを派遣したことに遡る。チン・テムルは後にジョチ・ウルス領となったホラズム地方のバスカク=ダルガとなり、イラン方面においてジョチ家の代理人としてジョチ・ウルスの権益を保持した。1236年、オゴデイ・カアンによる「丙申年分撥」が行われると、耶律楚材の献言によって「投下領主は投下領に対してダルガのみを任命し、徴税業務などは朝廷が任命した官吏が行う」よう定められた。遅くともこれ以後、華北地方の全ての投下領に投下領主によって任命されたダルガが設置されるようになったようである。 投下領主によるダルガの任命を巡る政策の変遷については、『元典章』巻9「改制投下達魯花赤」の条に詳細な記録が残されている。 ……『各投下のダルガ[チ](達魯花赤)は、チンギス・カン(太祖皇帝)が初め北方に起れる時節に『アカ・デウ(兄・弟たち=チンギス一族)が結成して、天下を定取すれば、各々地土を分ち、共に富貴を享けん』と。『セチェン・カアン(世祖皇帝)が即位して以来、法度を立て、諸王に分けたる城子は、彼等をして各々自らダルガを委付せしむるあり。この事の行わること多年なり。近頃、テムデル(帖木迭児)はセチェン・カアンのジャルリク(聖旨)に背き、故なくして各投下が委付したる所のダルガをば罷めさせ、ただ次二官だけを委付せしめたる為に、諸王の心を失いたり』と台官らが題奏したり。テムデルも却って回奏したるあり、『まさに旧により彼等をしてダルガを委付せしむべし』と言うあり……近頃、イェスンテムル晋王・ドレネ等の大王もまた言う『これ(ダルガの任命)は我ら投下のことなり。先例に依って任命すれば、いかがか』と我らに対し文書を与えたるあり、と奏するに、聖旨を奉じたるに『我もまたこのように言いたり。セチェン・カアンの時分より定めるあり。先例に拠って、ただ各投下をして為頭のダルガを委付せしめよ』と聖旨ありたり。 — 江南行台、『元典章』巻9「改制投下達魯花赤」 『元典章』の記述によると、チンギス・カンの一族(モンゴル語でこれを「アカ・デウ(兄と弟、転じて「一族」を指す慣用句)」と呼ぶ)は国初より「地土を分ち(=投下領を得て)共に富貴を享く」権利を有しており、その一環としてセチェン・カアン=クビライは「諸王に分けたる城子(=投下領)」に、投下領主自らがダルガを任命する権利を認めていた。そして、1310年代に丞相であったテムデルが投下領主のダルガ任命権を奪おうとしたところ、イェスン・テムル(後の泰定帝)ら諸王の猛反発を受け、セチェン・カアンの旧例に戻さざるをえなくなった、という。以上の記述に見られるように、投下領主による投下領のダルガ任命は国初より当然の権利とモンゴル王侯に考えられており、これを掣肘しようとする動きがありながらも、結局は変更されることなく大元ウルス末期まで続いた。 伝統的な中国官僚制度では地方官吏は一定期間ごとに別の赴任地に異動される(遷転制)ことになっており、投下領主の任命するダルガも原則上は3年ごとに異動するよう定められていた。しかし、この原則は元代を通じてほとんど守られなかったようで、朝廷からはたびたび規則通りダルガの遷転を行うようにとの命が出されている。また、ダルガは原則モンゴル人のみが任命されることとなっていたが、名前を偽ってダルガに任命される漢人・南人が後を絶たず、たびたび禁令が出されていたことが記録されている。
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