ダフニ・デュ・モーリエとの公私にわたる関係
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「ガートルード・ローレンス」の記事における「ダフニ・デュ・モーリエとの公私にわたる関係」の解説
1948年、ローレンスはダフニ・デュ・モーリエが自分のために執筆された演劇『September Tide 』に主演のためイギリスに戻った。ローレンスの役はコーンウォールの中年女性で、義理の息子であるボヘミアン・アーティストと恋に落ちる。ブロードウェイでローレンスが上演することを考慮して執筆されたが、オルドリッチはイギリス向きであってアメリカ向きではないと考えた。ロンドンのメディアはローレンスの復帰作として注目する中、一般市民は以前のようにスターが舞台に上がることに興味を持てず、ローレンスは第二次世界大戦からの復興がなかなか進まないことに心を痛めていた。ウエスト・エンドでの開幕前、ローレンスの絶頂期を知る年配者の集客を見込めるブラックプール、リーズ、リヴァプール、マンチェスターでツアー公演を行なった。ツアー中、ローレンスは情緒不安定となり、共演者のマイケル・ガフ、ブライアン・フォーブスらと度々衝突していた。1948年12月中旬、ロンドン公演が開幕した。 『パンチ』誌のエリック・キオンはローレンスの復帰について「喜ばしい機会」としたが、公演については「陳腐でローレンスの才能が活かされていない」と記した。1949年7月まで上演し、その後アメリカに戻り、デニスに夫が所有する劇場で1週間この作品を上演した。 1993年、作家で脚本家のマーガレット・フォスターの伝記によると、ローレンスとデュ・モーリエは『September Tide 』ロンドン公演中に親しくなった。1989年にデュ・モーリエが亡くなるまで2人の関係は明かされなかった。フォスターによると、1949年頃、デュ・モーリエはローレンスについて「はっきり言えば、創造力のある人はガートルードと寝るより語り合うことを好むだろう」と語った。 1981年の書籍『Gertrude Lawrence 』において伝記作家のシェリダン・モーリーはデュ・モーリエにインタビューを行なった。デュ・モーリエはローレンスを「シンデレラ」の短縮形「シンダース」と呼んでいた。デュ・モーリエによると、『September Tide 』出演交渉中でもリハーサル中でもローレンスは「ロンドンのアパート」に住んでいた。客用にお湯を沸かすことですらローレンスにとってストレスであった。デュ・モーリエはインタビュー前に自作の『September Tide 』脚本を探したが見つからず、インタビュー時には台詞を全て忘れており、ローレンスの姿かたちも服装も話したことも覚えていないと語った。結局モーリーの伝記にはデュ・モーリエはこれ以上のことは寄与しなかった。 ローレンスの生前、ローレンスとデュ・モーリエの個人的関係は明らかにされなかった。ローレンスが亡くなってから2年後、夫のオルドリッチはベストセラーとなったローレンスの伝記『Gertrude Lawrence as Mrs. A. 』で以下のように記した: 良くも悪くも彼女の性格は度胸、正直さ、大きな心で生まれ持った思いやりにより大目に見られていた。 彼女は自分で気分が変わりやすいことに悩んでいたと思う。分析力よりも直観の才能があった。彼女のことをよく知っている人よりも、彼女は自分のことをよくわかっていたとは思わない。ダフニ・デュ・モーリエほどには。 『September Tide 』イングランド公演の数か月間、ガートルードとダフニは温かな友情をはぐくみ、ガートルードがアメリカに戻ってからも壊れることはなかった。のちにガートルードに招かれダフニはニューヨークを訪れた。その後のダフニのベストセラー小説『Mary Anne 』の主人公は当初ガートルードになる予定であった。 のちにダフニの言葉からロンドン滞在中のガートルードの心の葛藤の全容を解明することができた。ダフニはガートルードには感情的、移り気、軽い自己嫌悪の傾向があったことを語った。ほかのイギリス人の友人たちにはガートルードはイングランドに残りたいと語っていた。
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