ダイニチ映配時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/20 08:19 UTC 版)
「大映#1970年代」を参照 1970年6月、ダイニチ映配が誕生。大映専務の松山英夫が社長、日活常務の壺田重三が副社長にそれぞれ兼任で就任する。 両者の配給網は統合され、その地ごとで大映系と日活系のどちらか一方に封切館が集約された。あぶれた片方は旧作やピンク映画の上映で食いつなぐケースが見られた。 発足後の第1弾は、大映(大映東京)が製作した『太陽は見た』と、日活が製作した『盛り場流し唄 新宿の女』による2本立。これ以降は一部を除き、大映と日活が新作を1本ずつ持ち寄り、それらを抱き合わせる形で公開する2本立を、興行の基本とした。会社発足の当初に、新聞広告で掲げたキャッチコピーは、文字通り「大映・日活の封切作品が一度に見られるダイニチ!」であった。 両社の経営環境はすでに過酷な状態にあり、引き続きベテランを中心としたスタッフや俳優の退社、映画製作予算の削減、旧来の撮影所システムによる映画作りが破綻・制作現場の荒廃が進む中、限られた予算で映画を制作するために「暴力・エロ・グロ」を中心に企画を打ち出す。 その中から生み出された代表的な作品として、日活の『野良猫ロック』シリーズ、『ハレンチ学園』、『八月の濡れた砂』などのアナーキーな「日活ニューアクション」。大映の『でんきくらげ』『十代の妊娠』『高校生ブルース』『おさな妻』といった「ジュニア・セックス・シリーズ」が挙げられる。 数は少ないながらも、新人・若手の台頭もあった。代表格が、大映の関根恵子(現・高橋惠子)で、『高校生ブルース』『おさな妻』では、ヌード、十代での妊娠など体当たりの演技をこなして注目を浴びている。 他にも大映では関根恵子と共演した篠田三郎や松坂慶子。日活では夏純子、沖雅也、『八月の濡れた砂』主演の村野武範が挙げられる。 石原慎太郎原作の『スパルタ教育 くたばれ親父』(日活)では、往年の日活のスター、石原裕次郎と、大映の看板女優・若尾文子が夢の共演を果たすシナジー効果も生み出している。因みに本作品の同時上映は、勝新太郎主演の『座頭市あばれ火祭り』(勝プロダクション)で、発足間もない1970年のお盆興行において、勝新・裕次郎という双方の社を支えたスターの顔合わせを、早くも実現させていたことになる。 また『ボクは五才』(大映京都)、『ママいつまでも生きてね』(大映東京)など、子供の目線で社会を見つめた佳作も世に生み出した。
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