ダイエーグループの進出
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1975年(昭和50年)4月に行われた市長選によって添田八尾亀が再び市長に返り咲くと、「コミュニティづくり政策」を掲げて施設整備を推進し、1978年(昭和53年)1月に屋島庭球場、5月に中央公民館、6月に市立病院(改築)、7月に市営野球場、11月に体育文化センター、翌1979年(昭和54年)4月に勤労青少年ホーム(現子育て支援センター)および弓道場、1980年(昭和55年)6月に働く婦人の家と、公共施設が立て続けに新築(改築)された。 また、添田市長は消費人口の市外流出を食い止めるため、田中六助衆議院議員の仲介でダイエーの中内㓛社長と接触し、人口増加の著しい通谷地区への大規模スーパー誘致を要望した。地元商店街の反発があったものの、ダイエー側は専門店街に隣接した用地を地元商業者用の出店用地(グリーンプラザ商店街)として確保することを条件として提示することにより合意を図り、1978年(昭和53年)9月に「ダイエー中間店」がオープンした。市内に核となる大型ショッピングセンターが進出したことは、消費人口の市外流出阻止に一定の効果が見られたが、この年を境に地元商店街の衰退は急速に進むこととなった。 相次ぐ公共施設の建設は当然市の財政を圧迫し、昭和50年代中頃には再び財政再建準用団体に転落する寸前となったが、昭和40年代に行った住環境整備政策の成果がようやく現れてきて、人口の増加に伴う市税収入の改善により辛うじて持ち直すことができた。ただし、単年度赤字については解消されたものの、この頃の建設ラッシュにより膨らんだ市債(借金)の償還にあてられる公債費の比率が上昇したことは、その後も中間市の財政を硬直化させる原因となった。
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