スキーの日本での広まり
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/10 07:12 UTC 版)
「スキーブーム」の記事における「スキーの日本での広まり」の解説
1902年(明治35年)1月の八甲田雪中行軍遭難事件以降、帝国陸軍では厳冬期における装備や行動技術の研究の必要性が求められていた。 欧米に留学中だった永井道明がスウェーデンにいた頃、スキーに興味を持って練習していた永井の姿が公使の杉村虎一と誤って現地で大きく報道された。このことが縁となって杉村もスキーに興味を持ち、1910年(明治43年)に杉村から日本に2組のスキーと指導書が送られてくる。 雪国である高田を衛戍地としていた第13師団の師団長長岡外史は部下に命じてこれらの技術の研究と道具の複製を行わせた。 やがて日露戦争の勝利に湧く日本を視察するために来日していたオーストリア=ハンガリー帝国の軍人にしてスキー熟達者のテオドール・エードラー・フォン・レルヒがスキー技術指導のために高田にやってくる。 1911年(明治44年)1月12日、隊員から選ばれた10数名のスキー専修員を対象に技術指導が始められた。 レルヒによる指導の様子は地元の新聞などでも連日報道され、周辺の学校の教師などもこの講習会に参加し技術の習得を試みるものが現れた。 翌年以降も高田でスキー講習会は続き、鉄道・営林・逓信といった実業のためにスキーを必要とする職業の他に、長岡の闊達な人柄もあって軍人以外にも学生や婦人ら一般にも広がりを見せた。 スキー技術は発祥である新潟県以外にも北海道や長野県、山形県、秋田県など各地に伝播していった。またこの潮流は信越線などの鉄道を通して東京の学生たちにも伝播することとなった(信越線の全通は1893年)。 国土の約半分が雪国である日本において、ただ耐えるだけだった冬に対する認識が大きく変わった時期であり、国産のスキー道具の生産が始まったり、各地にスキー場が生まれるなど冬の過ごし方や人々の考え方、経済活動等に変化が生じた。
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