ジョン・モルガンの介入
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/19 00:14 UTC 版)
「1907年恐慌」の記事における「ジョン・モルガンの介入」の解説
混沌がニューヨークの銀行間の信頼関係を揺さぶり始めたころ、ウォール街で最も有名な銀行家は街の外にいた。JPモルガン商会のジョン・モルガンは バージニア州リッチモンドにある教会で開かれた集会に参加していた。モルガンは当時ニューヨーク一の富豪で、最も広い人脈をもった銀行家というだけでなく、1893年の金融恐慌の際に米財務省を救った実績を既に持っていた人物でもあった。危機の情報が集まるとモルガンは10月19日土曜深夜のうちにウォール街に戻った。翌日、36丁目とマジソン街が交差するところにある通称「モルガン・ライブラリー」 には、情報を共有しようと(あるいは救いを求めようと)するニューヨーク各銀行の頭取・信託会社社長らが終日訪れ、モルガンは終日事態の把握に努めた。 モルガンはニッカーボッカー信託会社の帳簿を点検し、破綻は不可避であり、取り付け騒ぎには介入しないとの結論を出した。しかしながら、一方でニッカーボッカー破綻の影響が他の健全な信託会社へ飛び火しつつあることを認め、そうした健全な(救う価値のある)金融機関の救済に乗り出そうとした。10月22日火曜日、アメリカ信託会社(Trust Company of America)社長がモルガンに助けを求めてきた。その日の夕方、ジョージ・ベーカー(George Fisher Baker, ファースト・ナショナル銀行頭取)、ジェームズ・スティルマン(ナショナル・シティ銀行頭取)、アメリカ合衆国財務長官ジョージ・コーテルユーがモルガンの下に集まった。コーテルユーは、国庫金を銀行に預託する用意があると述べた。モルガンは深夜、バンカーズ信託会社の業務責任者であったベンジャミン・ストロングらに水曜昼までにアメリカ信託会社を監査するよう指示した。10月23日水曜午後、夜を徹した監査を終えたストロングは「アメリカ信託会社には充分な支払い能力がある」との結論をモルガン、スティルマン、ベーカーに伝えた。モルガンはストロングに「アメリカ信託会社を救済することを正当化できると思うか」と尋ね、ストロングは「できると思う」と答えると、モルガンは「それじゃ、問題はこれで終わりになるな」と言ったという。 アメリカ信託会社で騒ぎが始まると、モルガンはスティルマンとベーカーに働きかけ、同社の資産の流動性を確保すべく預金を払い戻すための資金を供給させた。翌日も更に資金が必要であるとして、モルガンはその晩他の信託会社社長らを招集し、深夜までかけて説得して825万ドルを確保した。10月24日木曜の朝、コーテルユー長官は、新たに2500万ドルをニューヨークの複数の銀行に預け入れると発表した。また全米一の大富豪ジョン・D・ロックフェラーは更に1000万ドルをスティルマンのナショナル・シティ銀行に預金した。ロックフェラーはAP通信の責任者メルヴィル・ストーンに電話で、「この預金は市民に信用を植え付ける為であり、アメリカの信用を維持するためなら資産の半分を担保として差し出してもよい」と語っている。
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