ジョットの死後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/08/20 23:50 UTC 版)
「ジョット・ディ・ボンドーネ」の記事における「ジョットの死後」の解説
ジョットは1337年1月に死去した。ヴァザーリの著書では、ジョットはフィレンツェのサンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂入り口左に埋葬され、白大理石の墓碑が置かれたとなっている。しかしながら他の記録もあり、それによるとフィレンツェのサンタ・レパラタ聖堂 (en:Santa Reparata, Florence) の教会に葬られたとされている。この異なる二つの説は、サンタ・レパラタ聖堂がサンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂が建築開始されるまでフィレンツェの聖堂であり、サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂の着工後は大聖堂地下に移築されるものの、大聖堂建築中の14世紀前半には依然として教会として機能していたという事実で矛盾なく説明できる。 1970年代にサンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂周辺が発掘され、ヴァザーリが著書に書いた墓碑はなかったが、位置的に近い場所であるサンタ・レパラタ聖堂の舗装下から骨が発見された。発掘当初からこの骨はジョットではないかと考えられており、2000年の人類学者フランチェスコ・マッレーニと専門家のチームによる法医学調査によって新しい発見があった。当時顔料として使用されていた砒素化合物と鉛の痕跡が骨から見つかったのである。 発掘された骨は120cmをわずかに超える低身長の男性のもので、先天的小人症に罹患していた可能性がある。このことは、フレスコ画の一つに描かれている小人がジョットの自画像だというサンタ・クローチェ聖堂の伝承を裏付けている。しかしながら、スクロヴェーニ礼拝堂の『最後の審判』に描かれている白い帽子をかぶった男性がジョットの肖像画だという説もある。この白い帽子の男性はサンタ・クローチェ聖堂の伝承とは相入れない外観になっている。ヴァザーリの著書には、ジョットの友人だったボッカッチョは「フィレンツェには醜い男性はいなかった」として、ジョットの子供たちも普通の外観をしていたとヴァザーリに語っている。他にも、ダンテがスクロヴェーニ礼拝堂で絵画制作をしていたジョットを訪ねたときに、足元にいる子供たちを見て「これほど美しい絵画を描く男の子供が、どうしてこんなにも普通なんだ」と冗談を言ったところ「暗闇で子供を作ったからさ」とジョットが返したという話も記載されている。ヴァザーリによればジョットはいつもウィットに富んだ男だった。 イタリア人研究者達はこの発掘された骨がジョットのものであると確信しており、調査終了後にルネサンス期の著名な建築家フィリッポ・ブルネレスキのそばに敬意を込めて埋め戻された。しかしながらイタリア人以外の研究者は懐疑的な見方を変えてはいない。
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