シャールフの遣明使節団
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/11/27 03:08 UTC 版)
「ギヤースッディーン・ナッカーシュ」の記事における「シャールフの遣明使節団」の解説
使節団にはシャールフの名代(シャーディー・フワージャとキョクチェ Shādī Khwāja and Kökchä)のほかに、太子バイスングル Bāysonḡor の名代(スルターン・アフマドとギヤースッディーン・ナッカーシュ Sultān Ahmad and Ghiyāth al-dīn Naqqāsh)が含まれていた。使節団は、1419年11月24日(ヒジュラ暦822年ズルカアダ月6日)にティムール朝の首都ヘラートを出発し、バルフを経て、サマルカンドに向かった。サマルカンドでは、マーワラーアンナフル総督のウルグ・ベグが明朝に送る使節と合流する予定だったが、そちらはすでに出立してしまっており、ナッカーシュのいた使節団は、明朝に帰る「遣ティムール朝使節団」とともに、1420年2月25日にサマルカンドを発った。 使節団はタシケントやサイラムを経由するルートを通った。トゥルファンとハミには、いずれも不信仰者(カーフィル)のコミュニティがあったとナッカーシュは記録している。ナッカーシュはキリスト教徒と仏教徒を目撃したものとみられる。 使節団は1420年8月29日に、万里の長城の西端、嘉峪関に到り、明帝国の支配領域に入った。長城から45キロメートルほどのところに粛州という町があり、そこで使節団の人数と各人の名前が登録された。当時の中央アジアを往来した外交使節の例に漏れず、シャールフの使節団には多数の商人がコバンザメのようについてきており、使節団は全体で500人に達しようとする大所帯であった。 使節団は、粛州から北京まで2900キロメートルあまりの路程を、整備された駅伝制を利用して旅した。贛州を経由して蘭州で黄河を渡った。この際、舟橋で渡河したことが印象深かったとつづられている。現存するナッカーシュの記録は散逸してしまったが、その後、西安を経由した。11月18日に潼関で再び黄河をわたり、12月3日に北直隷の主都正定に到り、12月14日に北京に着いた。 使節団は永楽帝の下で5ヶ月過ごした。ナッカーシュによると、接遇を担当した明朝の高官はハーッジー・ユースフ・カーズィー(Hājjī Yūsuf Qāzī)という名前の、アラビア語とモンゴル語とペルシア語と中国語を解する一人のマウラーナー Mawlānā であった。 ナッカーシュは、滞在中に見た宮廷内の行事(朝見の儀など)や歌舞音曲(雑技芸術など)について詳しく記録に残している。また、凌遅刑の執行も見ることになり、記録している。 ティムール朝の使節団は、1421年5月18日に北京を去って帰路についた。旅の途中でモンゴル(北元)の侵入があって赣州、粛州には予定より数ヶ月遅れて到着した。嘉峪関では入国時の名簿に登録した人数と名前と出国する人員の人数と名前が一致するまで長い時間をかけて調べられ、1422年1月13日になってようやく出国が認められた。 ヘラートから出立した使節団は、1422年8月29日(ヒジュラ暦825年ラマダーン月11日)にヘラートに戻った。 ギヤースッディーン・ナッカーシュは詳細な旅の記録をつけており、中国の物産の豊かさや市場の巨大さ、駅伝制度のすばらしさについて書いている。駅伝制についてはペルシアと比較して、もてなしが温かく、提供される宿が快適であり食事がよいとしている。また、物品の豪華さや、それを作る職人の技術の見事さについて記載している。
※この「シャールフの遣明使節団」の解説は、「ギヤースッディーン・ナッカーシュ」の解説の一部です。
「シャールフの遣明使節団」を含む「ギヤースッディーン・ナッカーシュ」の記事については、「ギヤースッディーン・ナッカーシュ」の概要を参照ください。
- シャールフの遣明使節団のページへのリンク