シベリア抑留・残留
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1943年(昭和18年)、伊賀山正徳監督映画『海ゆかば』に出演したのを最後に陸軍に応召され、満州(現在の中国東北部)に駐留。独立歩兵二十四大隊の一等兵となる。1945年(昭和20年)8月、終戦により滝口ら多くの日本兵は、ソ連軍の捕虜となり、シベリアに抑留された。 釈放後、社会主義の理念に共感したためソ連に残留し、ハバロフスク放送局の日本語アナウンサーとなる。この頃、岡田嘉子が1938年(昭和13年)1月に樺太の日ソ国境を超えて岡田の愛人である演出家杉本良吉(1907年 - 1939年)と共にソ連に亡命し、モスクワ放送日本語課に勤務していることを知り、手紙を送るようになる。1950年(昭和20年)、上司の計らいでモスクワへ転勤させてもらい、岡田、清田彰、川越史郎、石井次郎らと共に勤務した後、岡田と結婚した。 結婚後もモスクワ放送で日本語アナウンサーとして活動していたが、1971年(昭和46年)8月15日、肝硬変のため入院し、同年10月24日に死去した。満58歳没。1972年(昭和47年)11月13日、岡田が滝口の遺骨を持って帰国。滝口は満州で戦死していたと思っていたファンも多く、衝撃を与えたという。葬儀はモスクワ放送によって行われ、遺骨は岡田家の多磨霊園に納められた。
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