ザ・バンド全盛期
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/30 07:24 UTC 版)
「ガース・ハドソン」の記事における「ザ・バンド全盛期」の解説
1968年、ザ・バンドとしてアルバム『ミュージック・フロム・ビッグ・ピンク』が発表される。ガースの重厚にして変幻自在のオルガンはバンドのサウンドに深みを加えることとなり、多くのファンの支持を得た。「チェスト・フィーバー」の冒頭部のオルガンは彼が幼少期に親しんだ賛美歌の影響が見られる。後年ガースは「英国国教会は、僕が知っている教会の中でも、最良の音楽的伝統を有している。」と語っている。 2作目の『ザ・バンド』では彼の才能がさらに伸びる。「ラグ・ママ・ラグ」のラグタイム風のピアノ演奏を披露、「ロッキン・チェア」ではアコーディオンを担当するなど多才振りを見せ、「クリプル・クリーク」では当時まだ新しかったクラビネットを演奏している。(アルバムのクレジットには、オルガン・クラビネット・ピアノ・アコーディオン・ソプラノサックス・アルトサックス・スライドトランペットを担当するとある。)その上手さは、前述の「ラスト・ワルツ」や残された映像から伺われるが、譜面はおろか盤面を見ずに両手で違った旋律を奏でていて驚くばかりである。彼はボーカルを担当することは無く、専ら後ろの方でキーボードを操ることに専念している。研究熱心で、ツアーやセッションで訪れると必ず質屋を訪問し、気に入った楽器や古い音楽の資料を探した。 デビュー当時から老成した感じのするメンバーたちであったが、特に最年長のガースは広い額に顔半分を覆う髭面で、一番の老け顔であった。また、シンセサイザーや音楽機器を巧に操作してアルバムのサウンドを作り上げる能力にも長けていた。
※この「ザ・バンド全盛期」の解説は、「ガース・ハドソン」の解説の一部です。
「ザ・バンド全盛期」を含む「ガース・ハドソン」の記事については、「ガース・ハドソン」の概要を参照ください。
ザ・バンド全盛期
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/10 13:59 UTC 版)
「リチャード・マニュエル」の記事における「ザ・バンド全盛期」の解説
1968年にザ・バンドと改名し、レコード・デビュー。初期3作のアルバムでは、リチャードは積極的に作曲活動を行っている。とくにデビュー・アルバム『ミュージック・フロム・ビッグ・ピンク』の「イン・ア・ステーション」、2作目『ザ・バンド』の「ウィスパリング・パインズ」はリリシズムにあふれた楽曲であり、メンバーから作風がビートルズのジョージ・ハリスンに通じるものがあると言われたという。 2作目『ザ・バンド』からドラムを担当。リチャードは経験が無かったが、いざやってみるとドラマーのリヴォン・ヘルムをして「おれよりリチャードの方が上手いよ」と言わしめるほどの腕前であった。「ラグ・ママ・ラグ」収録時は、始めリヴォンにドラムをさせたがどうもうまくいかず、かわりにリチャードにさせると、その素人っぽさがかえってよい効果を生んだ。 ボーカリストとしても、デビュー・アルバムに収録された「アイ・シャル・ビー・リリースト」(ボブ・ディラン作)はファルセットを効果的に使った名唱とされている。ロビー・ロバートソンは「彼の声にはどこからか悲しみがただよっている」と評している。ザ・バンドのメンバーはリチャードがメインのボーカリストと認識していたようである。 穏やかな性格で仲間から「ビーク」と呼ばれて親しまれていた。しかし、アルコール、ドラッグにのめり込み作曲活動は次第に衰えを見せ、声も荒れ、車を猛スピードで走らせたりするなどの奇行が目立つようになる。家族も家出し生活も荒み切っていたが、友人たちの援助でかろうじて支えられながら音楽活動を継続する。 1976年11月25日に行われた『ラスト・ワルツ』コンサートで一旦バンドは解散。この時に撮影された映画にはあまりリチャードの姿がないが、彼は満身創痍の状態で歌えるどころではなく、「キング・ハーベスト」のリードボーカルも彼一人では歌い切れず、リヴォンとリック・ダンコが歌をサポートし、ロビーが間奏のギターを長めにするなどして助けた。
※この「ザ・バンド全盛期」の解説は、「リチャード・マニュエル」の解説の一部です。
「ザ・バンド全盛期」を含む「リチャード・マニュエル」の記事については、「リチャード・マニュエル」の概要を参照ください。
- ザ・バンド全盛期のページへのリンク