サバ(北ボルネオ)領土問題
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/05/04 15:00 UTC 版)
「ラハダトゥ対立 (2013年)」の記事における「サバ(北ボルネオ)領土問題」の解説
詳細は「北ボルネオ領土問題(英語版)」を参照 イギリスの北ボルネオ会社設立以前、サバ(北ボルネオ)はブルネイ王国とスールー王国それぞれのスルタンによる二重統治を受けていた。ただし、北ボルネオ全域にスルタンの支配が及んでいた訳ではなく、川ごとにいる支配者が川の河口や沿岸部に影響力を持ち、彼らをスルタンが名目上支配するという形式だった。 1878年、駐香港オーストリア領事のオフェルベク(英語版)とイギリス人商人のデント兄弟はスールー王国のスルタンから北ボルネオを一括で買い取った。だが、契約書にあった「pajak」という単語の解釈が両者の間で異なっており、オフェルベクらは「割譲」、スルタンは「租借」と解釈していた。また、毎年5000海峡ドル(英語版)の支払いについても、北ボルネオ会社側は分割払いと考え、スルタンは毎年の借料だと考えていた。この行き違いがサバ州の領有権問題につながることになった。2002年のリギタン島とシパダン島の主権に関する紛争の国際司法裁判所の判決に従って、スールー王国は1878年7月22日にあらゆる所有権の主権をスペインに有利な形で放棄した、とマレーシアは見なしており、それゆえサバ州の主張に対するいかなる肩書も失っていると見ている。 1963年のマフィリンド会談時に、スールー王国スルタンの末裔に対する支払い要求がフィリピン政府によって復活したことが判明している。当時のフィリピン政府はマレーシアの成立に問題はないとしながらも、スールー王国のスルタンがマレーシア政府から5,000の支払いを求めていると述べた。当時のマレーシア初代首相トゥンク・アブドゥル・ラーマンは、クアラルンプールに戻って自分が要請に応じると発言した。それ以来、在フィリピンのマレーシア大使館はその発言内容に従って毎年5,300リンギット(1,710USドルまたは約77,000フィリピン・ペソ)の小切手をスールー王国スルタン相続人の法律顧問に発行している。上述のように、マレーシアはその金額を「割譲」の年賦支払いとみなす一方、スルタンの末裔はそれを「租借」払いとみなしている。
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