コウチーニョ派とペドロ2世の青年期
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「ブラジル帝国の歴史」の記事における「コウチーニョ派とペドロ2世の青年期」の解説
コインブラ党は皇帝を成人とする年齢の引き下げ自体には反対しなかったが、引き下げは法的に行われるべき、すなわち憲法改正を経由すべきとした。政権側として危険や障害に直面した経験から、1830年代以降の政治家は保守派か自由派かにかかわらず、統治にあたってより大きな役割を果たすことに慎重になった。彼らは皇帝を基本的ながら役に立つ権威の源としてみて、それを統治と国の存続に不可欠であるとした。彼はペドロ1世の統治期に皇帝が政治で中心的な役割を演じることに反対していたため、その息子であるペドロ2世を政治における中心的な役割に置こうとするこの転向は皮肉なことだった。用心深い保守派と違い、自由派は摂政に失職を認めさせるよう圧力をかけた後、世論の支持をもって1840年7月23日にペドロ2世の成年を宣告した。 この結果は1838年時点ですでに予想できたことだった。アラウジョ・リマがフェイジョの後任として摂政に選出されたとき、彼はヴァスコンセロスを大臣に任命した。ヴァスコンセロスはすぐに頭角を現して実質的な首相になり、アラウジョ・リマ自身よりも権力を持つに至った。彼は他人と「協力などできず、支配しなければならなかった。彼は自分の意思から独立する権力の中心を許さなかった。どうりで彼の同盟者もやがて不満をもち、反乱するに至ったのだった」。ヴァスコンセロスは宮廷派の使用人を解任しようとしたが失敗した。アラウジョ・リマは権力を失うことを嫌ってヴァスコンセロス内閣への支持を撤回、ヴァスコンセロスは1839年4月18日に辞任した。その後、アラウジョ・リマが任命した内閣は議会での支持基盤が弱く、すぐに倒れる内閣ばかりだった。コインブラ党の影響力もカルネイロ・レオン、ロドリゲス・トレス、パウリーノ・デ・ソウザなどの次世代に奪われた。 ペドロ2世の成人宣言直後に形成した自由派内閣は1840年に国政選挙を行った。選挙不正と暴力が横行したため、棍棒選挙(ポルトガル語版)と呼ばれた。自由派と宮廷派の同盟は長続きしなかった。自由派の閣僚は宮廷派を内閣から追放すべくペドロ2世に辞表をつきつけた。若く経験不足なペドロ2世は自由派閣僚と宮廷派の間で選ばざるを得なかったが、結局彼は宮廷派の影響を受けて自由派閣僚の辞任を受け入れた。1841年3月23日に成立した新内閣ではコインブラ党も入閣した。 自由派はそのまま結果を受け入れず、1842年5月と6月にサン・パウロ州、ミナス・ジェライス州、リオデジャネイロで蜂起した。蜂起の言い分は「帝国政府の暴政、とりわけ皇帝を人質にしていることに対する行動」であった。反乱は8月末までに鎮圧された。元摂政のフェイジョも反乱の指導者の1人であり、彼は逮捕されて、直後の1843年に死去した。 コインブラ党は自由派との対比として、「秩序党」と自称するようになった。蜂起を鎮圧したことで秩序党の立場が強くなった。内閣では不和が増えており、主にペドロ2世への影響力のみで閣僚に留まっていたアウレリアノ・コウチーニョによるものだった。コウチーニョは秩序党の結党以来同党に反対しており、彼は「閣僚から排斥されている」ように感じた。新しく選出された議会が1843年1月1日に開会すると、内閣はコウチーニョに辞任するよう圧力をかけた。ペドロ2世はコウチーニョを失うことを嫌って、1月20日に内閣全体を罷免した。
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