ケンペルとの出会いとは? わかりやすく解説

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ケンペルとの出会い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/23 07:58 UTC 版)

今村英生」の記事における「ケンペルとの出会い」の解説

1690年元禄3年9月26日ドイツ人医師博物学者エンゲルベルト・ケンペル商館医師として出島上陸し前任者助手であった英生(当時数え20歳、以下年齢数え表記)をそのまま自分助手として採用した以後2年にわたりケンペルは主に英生の協力のもと日本の地誌に関する情報収集精力的に行い文物購入したが、その範囲当時提供を禁じられていた情報地図役職名鑑(『江戸鑑』)や仏像などにも及んだケンペル意思疎通を図るため英生にオランダ語文法から徹底的に教え込んだ。また協力見返りに英生はケンペルから薬学医学・博物学などを学ぶ。2回におよぶ江戸参府にもケンペルは英生を従者として同行させた。ケンペル今村源右衛門との情報交換詳細大英図書館残されるケンペル数々記録から窺われお互い並々ならぬ努力明らかにされた。 帰国後、ケンペル日本滞在中に得た情報見聞Heutiges Japan今日の日本)にまとめたが、生前には刊行されなかった。遺品としてその草稿買い取ったイギリス王室医師群を抜く収集家ハンス・スローン卿はスイス博物学者ヨハン・ヤコブ・ショイヒツエルの四男ヨハン・カスパル・ショイヒツエルドイツ語版)(Johann Caspar Scheuchzer)にそれを英訳させThe History of Japan日本誌)と題し1727年ロンドン刊行させた。その本評判呼びフランス語オランダ語にも翻訳された。 原稿序文で、ケンペルが「日本人助手」の協力言及しているが、その名前は著書のどこにも記さなかった。それが明らかにされたのは1990年大英図書館日本コレクション部長ユーイン・ブラウン(Yu-ying Brown)によりケンペル今村源右衛門(英生)との雇用契約書請状之事」が発見されことによる1695年9月26日25歳の英生は語学力買われ稽古通詞採用される身分制度厳し時代家格の低い内通詞出身の者が正式な通詞採用されるのは異例なことであった翌年7月早くも小通詞昇進する出島商館長日誌には「Gennemon」(源右衛門)の表記頻繁に彼の名前が現れる1697年年番小通詞年番大・小通詞代表し通常2人商館直接折衝する)に任じられた英生は出島乙名吉川儀部右衛門の姪「はる」と結婚翌年江戸小通詞江戸番は商館長一行江戸参府同行する)を務める。以後生涯にわたり彼は年番8回、江戸番6回を務めた1707年37歳で英生は大通詞昇進する

※この「ケンペルとの出会い」の解説は、「今村英生」の解説の一部です。
「ケンペルとの出会い」を含む「今村英生」の記事については、「今村英生」の概要を参照ください。

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