ケンペルとの出会い
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1690年(元禄3年)9月26日、ドイツ人医師・博物学者エンゲルベルト・ケンペルは商館付医師として出島に上陸し、前任者の助手であった英生(当時数え20歳、以下年齢は数え表記)をそのまま自分の助手として採用した。以後約2年にわたりケンペルは主に英生の協力のもと日本の地誌に関する情報収集を精力的に行い、文物を購入したが、その範囲は当時提供を禁じられていた情報や地図や役職名鑑(『江戸鑑』)や仏像などにも及んだ。ケンペルは意思疎通を図るため英生にオランダ語を文法から徹底的に教え込んだ。また協力の見返りに英生はケンペルから薬学・医学・博物学などを学ぶ。2回におよぶ江戸参府にもケンペルは英生を従者として同行させた。ケンペルと今村源右衛門との情報交換の詳細は大英図書館に残されるケンペルの数々の記録から窺われ、お互いの並々ならぬ努力が明らかにされた。 帰国後、ケンペルは日本滞在中に得た情報や見聞をHeutiges Japan(今日の日本)にまとめたが、生前には刊行されなかった。遺品としてその草稿を買い取ったイギリス王室の医師で群を抜く収集家ハンス・スローン卿はスイス人博物学者ヨハン・ヤコブ・ショイヒツエルの四男ヨハン・カスパル・ショイヒツエル(ドイツ語版)(Johann Caspar Scheuchzer)にそれを英訳させThe History of Japan(日本誌)と題し、1727年ロンドンで刊行させた。その本は評判を呼びフランス語やオランダ語にも翻訳された。 原稿の序文で、ケンペルが「日本人助手」の協力に言及しているが、その名前は著書のどこにも記さなかった。それが明らかにされたのは1990年、大英図書館日本コレクション部長ユーイン・ブラウン(Yu-ying Brown)によりケンペルと今村源右衛門(英生)との雇用契約書「請状之事」が発見されたことによる。 1695年9月26日、25歳の英生は語学力を買われ稽古通詞に採用される。身分制度の厳しい時代、家格の低い内通詞出身の者が正式な通詞に採用されるのは異例なことであった。翌年7月早くも小通詞に昇進する。出島商館長日誌には「Gennemon」(源右衛門)の表記で頻繁に彼の名前が現れる。1697年、年番小通詞(年番は大・小通詞を代表し通常2人で商館と直接折衝する)に任じられた英生は出島乙名・吉川儀部右衛門の姪「はる」と結婚。翌年江戸番小通詞(江戸番は商館長一行の江戸参府に同行する)を務める。以後生涯にわたり彼は年番8回、江戸番6回を務めた。1707年、37歳で英生は大通詞に昇進する。
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