クロノメーターの普及
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/31 02:42 UTC 版)
H-4やK-1を使った航海により、クロノメーターを使用した経度測定の有効性が確かめられた。しかしこれらの時計は数が少なく高価であったため、当初は使用できる機会が限られていた。 ケンドールはK-1製作後、より安価なK-2(1772年)、K-3(1774年)を製作したが、性能的にはK-1に劣っていた。トーマス・マッジは1774年に初めてクロノメーターを製作し、1777年にさらに2個の時計を製作した。マッジの時計はグリニッジ天文台でテストされたが、マスケリンはその性能を認めず、その後マッジとその息子はマスケリンと争うこととなった。 クロノメーターの大量生産はジョン・アーノルドによって成し遂げられた。アーノルドが作った最初の時計はクックの2回目の航海の時にK-1とともに携行されたが、これは気象の変化による誤差が大きく、航海には適さなかった。しかし1779年に作られた「ナンバー36」と呼ばれるクロノメーターは高い性能を示し、マスケリンらによるテストでも誤差は1日に3秒以内におさまった。アーノルドは1785年に工場を開設し、大量生産への道筋を作った。 またトーマス・アーンショウも高い性能のクロノメーターを多く製作した。アーノルドとアーンショウはライバルとなり、また、クロノメーターの機構である脱進機の特許をめぐって論争にもなった。マスケリンはアーンショウのクロノメーターを気に入り、今までテストしたクロノメーターの中で最も優秀だと評した。 フランスでも、ピエール・ル・ロワやフェルディナント・ベルトゥーによりクロノメーターの開発が進み、1770年代には実用化できるようになった。また1795年には、英国の経度委員会にならってフランス経度局を設立した。 アーノルドやアーンショウの影響で、クロノメーターは安価で購入できるようになった。ケンドールがK-1を作る時は500ポンドの製作費がかかったが、1780年代には65~80ポンドで手に入るようになった。それでも18世紀中は航海における使用機会があまりなかったが、19世紀に入ると普及していった。1815年時点で使われていたクロノメーターはおよそ5,000個に達し、1隻の船が複数個のクロノメーターを持っていることも珍しくなくなっていった。 一方で月距法による経度測定は、『航海暦』による改良はあったものの、当初は測定技術を習得している人が少なかったため、中々普及しなかった。18世紀末に行われた数々の航海により、実践的に月距法を学ぶ機会があったことで、19世紀からは良く利用されるようになったが、クロノメーターが使われるようになると、月距法は手間がかかり計算間違いも生みやすいという理由でしだいに使われなくなっていった。
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