ギリシアからローマへ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/05 17:53 UTC 版)
「エピクロス主義」の記事における「ギリシアからローマへ」の解説
エピクロスは、哲学を概念と論証によって幸福を作り出すための活動と定義し、全生涯における幸福と快を密接に結びつけ、真の快とは、精神的なものであって徳と不可分であり、節制に基づく、心の平安であるとした。このことを「パンと水さえあればゼウスと幸福で勝つこともできる」と表現した。 エピクロスの生涯と学説について、3世紀のディオゲネス・ラエルティウスは歴史的根拠のない伝説を容認し、ストア派が行ったエピクロスの醜聞なるものの告発・攻撃を行なった。そのため「快楽の存在」よりも「心の平安、苦痛がない状態」を賢者の目的としたはずのエピクロス哲学はいかがわしいうわさ話や伝説から選り分けなければならず、俗人には誤読されることになった。しかしディオゲネスはエピクロスをきちんと評価している。たとえば、・・・エピクロスその人も他の先行した哲学者に寛容ではなく、自己の教説を独裁的に弟子に押しつけたため、真のエピクロス派の影響は限られた。 ローマにおいては、ポエニ戦争後ギリシア哲学が浸透し、エピクロス派はストア派と並んで教育を受けたローマ人を魅了した。そのようなローマ人の例として、カエサル暗殺者の一人カッシウス、カエサルの義父にしてピロデモスのパトロンのピソ、キケロの友人アッティクスが挙げられる。しかしクリュシッポス以来ストア派によってエピクロス派への誹謗が行われたため、多数のローマ人はエピクロスの徒を「欲望の奴隷」と見なした。 キケロがその哲学解説書『善と悪の究極について(英語版)』においてエピクロスの説を通俗化し、抑制されない耽溺や享楽を正当化する、非常に悪い意味での唯物論者と同一視させた。詩人のホラティウスはふざけてではあるが、自分のことを「エピクロスの獣群のなかの豚」と呼んでいた。 一方、エピクロスについての真剣な研究がウェルギリウスやルクレティウスらの詩人によって行われ、特に後者による『事物の本性について(De rerum natura)』はエピクロス哲学を熱狂的で絢爛たる詩句で叙述し、迷信と恐怖からの解放を説いた。エピクロス哲学がルネサンス以降の読書人によって知られるようになるのは、ルクレティウスによる。
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