ギリシアとカルタゴの干渉
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/23 06:16 UTC 版)
「セゲスタ包囲戦」の記事における「ギリシアとカルタゴの干渉」の解説
ギリシア人によるシケリアでの殖民都市建設は、紀元前735年のナクソス(現在のジャルディーニ=ナクソス)建設が最初である。その後、シケリアの海岸沿いに、先住民であるシケル人やシカニ人を従属させ、あるいは同盟を結びつつ、幾つかの殖民都市が建設された。紀元前648年頃にヒメラ(現在のテルミニ・イメレーゼの東12キロメートル)が、紀元前628年にセリヌスが建設されることにより、エリミ人とフェニキア人居住地域に隣接することとなった。イオニア人都市であるヒメラは近隣のフェニキア人、エリミ人、シケル人と戦争を起こすことはなかったが、ドーリア人都市であるセリヌスは、近隣の都市と紛争を起こした。紀元前580年にはアクラガス(現在のアグリジェント)が建設されると、セリヌスが領土を拡大するためには北方のエリミ人か、西方のフェニキア人、あるいは東方のアクラガスを攻撃する必要が生じた。紀元前580年には、ペンタスロスがモティアの南方に都市を建設し、フェニキア人の商業活動を妨害しようとした際に、セリヌスとエリミ人の間に戦争が起こった。カルタゴ王マルケス(在位:紀元前556年頃 – 紀元前550年頃)は、シケリアのフェニキア人を支配下におき、「シケリアのほとんどを征服した」といわれるが、実際にカルタゴとエリミ人またはギリシア人の間に戦闘があったかは不明である。セリヌスはおそらくはカルタゴと戦争となり、敗北したと思われる。結果として親カルタゴのテルリス(en)が僭主となり、その後30年間シケリア西部では大規模な戦争はなかった。 紀元前510年、スパルタの王子ドリエウスがシケリア遠征を行うと、エリミ人とカルタゴ人は協力して、エリュクス(現在のエリーチェ)近くでスパルタ軍に勝利している。スパルタの残存兵士達は、ヘラクレア(現在のカットーリカ・エラクレーア)を建設した。しかしエリミ人とカルタゴは再び同盟し、紀元前510年以降にミノアを破壊している。紀元前480年頃までには、シュラクサイの僭主となったゲロンとアクラガスの僭主であるテロンの台頭により、シケリアの勢力は三分されることとなった。カルタゴと同盟したエリミ人とセリヌスが西部を、やはりカルタゴと同盟したヒメラとレギオン(現在のレッジョ・ディ・カラブリア)が北部を、シュラクサイとアクラガスが東部と南部を抑えていた。紀元前480年の第一次ヒメラの戦いでは、シュラクサイ・アクラガス連合軍がカルタゴの遠征軍に勝利したが、これにエリミ人は加わらなかった。アクラガスのテロンはその後モティアを攻撃したと思われるが、ギリシアとの講和後もカルタゴはシケリア領土を失わず、セリヌスとレギオンもゲロンと条約を結んだ。カルタゴがその後70年間シケリアに介入しなかったため、シュラクサイはシケリアにおける支配的地位を維持した。
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