ギャロの反乱
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/21 16:56 UTC 版)
1950年代後半、レッドフック地区の賭博利権がギャング抗争の火種となった。レッドフックは1930年前後にプロファチ一家に編入されたが、傘下のナポリ人派閥は独立の気風が高く、上納金問題でファミリー執行部と対立した。1959年11月、ドル箱の賭博チームを率いたフランク・アバテマルコが上納金滞納を理由に粛清され、プロファチがその縄張りを奪って身内に回したため、アバテマルコ仲間のジョーイ・ギャロらギャロ兄弟が反乱を起こした。プロファチは上納金を払わせるためアバテマルコの息子を捕えようとしたが、ギャロ兄弟が息子を匿い、抵抗した。一時メンバーの半数以上がギャロ側に付いたとされ、幹部を中心とするプロファチ陣営とギャロ陣営に分かれて内部抗争に発展した。1961年2月、ギャロ派はマリオッコやプロファチ弟など一家の首脳陣4人を拉致し、プロファチはフロリダに退避した。相談役ロシセリの交渉の末首脳陣は解放された。 プロファチはギャロ陣営の切り崩しを図り、ニコラス・フォーラノ、カーマイン・ペルシコらを寝返らせ、敵のアジトにスパイを潜り込ませた。1961年8月、ギャロ派用心棒ジョー・ジェリーが友人に釣りボートに誘われたまま行方不明になり、同じ頃にギャロ派の頭脳ラリー・ギャロがバーにおびき出され絞殺されかけた(偶然通りかかった警官に助けられた)。1961年10月、ニュージャージーの狩猟ロッジにいたプロファチはギャロ一味に襲撃されたが、ロッジのオーナーの機転で難を逃れた。1961年11月、プロファチ派2名がギャロ派に殺され、1962年3月プロファチの息子が銃撃された。1962年初めまでにギャロ派の多くを離反させることに成功したが、ギャロ派はアジトに籠城し、抵抗を続けた。 1962年初め、ガンビーノらにギャロ問題を解決できないとして引退を迫られたが、ボナンノと結託してこれに抵抗した。プロファチは同年6月に病死するまで抗争に悩まされた。ギャロの反乱はガンビーノが裏で糸を引いていたとも、ギャロと親しいジェノヴェーゼ一家のアンソニー・ストロッロ(トニー・ベンダー)が資金援助していたとも言われた。1964年まで失踪3名を含む12人の犠牲者を出した。
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