キリグア王朝の衰退と滅亡
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/25 20:26 UTC 版)
「キリグア」の記事における「キリグア王朝の衰退と滅亡」の解説
「空シュル」王は、785年10月11日(9.17.14.16.18.9エツナブ1カンキン)に即位し、その在位は、795年から800年の間のいずれかの年まで続いた。「空シュル」王は、獣形神Oを790年、獣形神Pを795年に刻ませている。これらの石彫は山とワニが組み合わされたのような形をしている。獣形神Gには、紀元前3114年のマヤ暦の起源に関連して、その年にすえられたという「ジャガーの王座の石」という文字が刻まれ、石碑Cに刻まれた創世神話で、炉のそばに安置されたヘビ(の神)の石、水(の神)の石、ジャガー(の神)の石のうちのひとつにたとえられていると考えられる。獣形神Pの表面は、葉状の渦巻きやヘビ、さまざまな神像とマヤ文字が隙間なく刻まれている。獣形神Pの牙を生やした口の中には足を組んで座り王権を表すカウィールの笏と盾をもった王の姿が刻まれている。獣形神Oと獣形神Pには、それぞれ対になる祭壇があって、獣形神Oの祭壇には、大地の上に浮かぶ雲の渦巻きにつつまれた雷神が刻まれている。獣形神Pの祭壇には炎の斧によって切り裂かれた大地の裂け目から名前がまだわかっていない「口からヘビを発する神」が顔をのぞかせているさまが刻まれている。獣形神Pは、先王カック・ティリウが埋葬された「13カワクの家」で「滴を撒き散らす儀礼」を行い、カック・ティリウに処刑されたコパン王ワシャクラフン・ウバフ・カウィールの記念碑がある場所で「踊り」が行なわれたという。カック・ティリウとワシャクラフン・ウバフ・カウィールを祀ったとされる記念碑は、祭壇Rと祭壇Sと考える説が有力であるが、建立の年代が不明である。祭壇Rと祭壇Sには、洞窟の中に座る王の姿が刻まれ、どことなくオルメカの祭壇を思い出させる。 「空シュル」王が795年から800年の間のいずれかの年に亡くなると、カック・ホル・チャン・ヨアート (Kak Jol Chan Yoaat)と本名が解読されている16代目の王の称号をもつ「ヒスイ空」が王となった。「ヒスイ空」の時代には、建造物1B-5と1B-1が完成した。ただし、実際には、王の名称に関して碑文での音声的な表現の仕方や動詞の接尾辞に微妙な変化がみられるため、「ヒスイ空」が単独であったか複数の王がいたのか、文字の用法の変化が起こったのか論争になっている。 「ヒスイ空」の治世に刻まれた石碑Iには、カック・ティリウ時代の栄光を振り返るようにカラクムルとの接触とコパン王の斬首に先行する6日前の「はじまりの出来事」に関しての記述がある。805年に建てられた石碑Kは、こぢんまりとした石碑でありキリグアの衰退を如実に表している。キリグアの建造物1B-1には、キリグアの最後の日付である9.19.0.0.0.(810年)が刻まれている。この碑文には「ヒスイ空」とコパン王ヤシュ・パサフがともにカトゥンの終了を祝う儀礼を行なったことを刻んでいる。宿敵であった両都市の王が権威を失いつつある支配階級として利害が一致したために和解に至ったという説もあるが、実際のところは不明である。キリグアは、「ヒスイ空」の後まもなく放棄されることになる。しかし、その後キリグアには、いずこからか鉛釉土器をもち、チャクモールを刻んで建てた集団が住み着いてアクロポリスの増築を行なっている。この集団はおそらくユカタンからやってきたと思われる。
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